シンギュラリティは来ない

 飛躍的に進歩したAI(Artificial Intelligence=人工知能)の能力が2045年には人間の知能を超えるまでになり、その転換点=技術的特異点(ティツピングポイント)を表す「シンギュラリティ」という言葉が注目されている。シンギュラリティによって人間の仕事がAIに奪われることなり社会が劇的に変化する、果てはAIの反乱によって人類が滅亡するといったことまで語られている。

 さて、AIが社会に与える影響については、これまで何度かムーブメントがあった。 「マイコン(=マイクロコンピュータ)」や「パソコン(=パーソナルコンピュータ)」がポピュラーな言葉となって1970年代後半から1980年代前半にかけては、映画、TVドラマ、小説等でコンピュータが人類に敵対するという作品が目白押しであった。

 石ノ森章太郎原作の子供向け特撮ドラマ『大鉄人17(ワンセブン)』では、地球の平和を護るために開発されたスーパーコンピュータが「平和を護る」という意味を拡大解釈し、人類を地球の癌と判断して抹殺を図るという話である。
 あの頃も、今後、コンピュータ技術が進歩すれば、人類に危機が訪れるということが言われていたのである。まさに、歴史は繰り返す、である。

 ところで、AI開発と言えば、ここで思い出されるのはかつて日本で開発された『第5世代コンピュータ』である。
第五世代とは、
  ・ 第一世代(真空管
  ・ 第二世代(トランジスタ
  ・ 第三世代(集積回路=IC)
  ・ 第四世代(大規模集積回路=LSI)
に続く、人工知能対応の次世代技術を意味し、当時の通商産業省(現経済産業省)が、1982年から1992年にかけて進めた国家プロジェクトである。開始時には年間10億円、総額で540億円の国家予算が投入された。
  ① 非ノイマン型計算ハードウェア、
  ② 知識情報処理ソフトウェア、
  ③ 並行論理プログラミング言語
がプロジェクトの三本柱とされ、『述語論理を基礎にした自動推論を高速実行する並列推論マシンとそのOSを構築する』というものであった。つまり、ハードウェアとして要素プロセッサを並列的に搭載した並列推論マシンを使用し、人工知能ソフトウェアにより知識情報処理を行うというものである。
 ただし、このような説明では一般には判り難いため、通産省側は数々の意欲的な応用例(目標)を掲げていた。例えば、医師が患者と対話して病状を推定する問診に代わって、AIが患者を問診するエキスパートシステムを開発するなどである。これはある意味、人間の頭脳を超える人工知能の開発と言えるものであった。
 しかし、実際の開発側では、並行論理プログラムを実践するための並列推論マシンの開発が目標であると明言しており、プラットフオームが高性能化すれば自然にその応用(アプリケーションソフトウェア)も生まれていくだろうと考えられていた。

 さて、第5世代コンピュータがAI開発において真の意味で役立ったのは、実は、開発終了後である。当時の科学技術庁長官、つまり、科学技術に疎い政治家が、「人間の知的機能を補完または代替するシステム」についての諮問したのである。要するに通産省の主張するような、人間の頭脳と比較できるほどの性能を持ち、しかも使いやすいコンピュータが本当にできるのか、というごく素朴な質問である。
 そして、これを受けて、科学技術庁の航空・電子等技術審議会の人工知能分科会(主査・榎本肇東工大教授)により、知能科学に関する中間報告がまとめられた。
 簡単に言えば、人間は自ら問題点を発見し、それを解決する能力があるが、そのためにどのような情報処理を実施しているのか、という思考パターンのモデルがまったく解明されていない、ということである。この肝心の部分が解明されていないのに、人間同等の知性を待ったAIの開発など不可能であり、今後は脳の認知学などの研究にも力を注ぐべき、というのが提言の内容であった。
 第5世代コンピュータでの応用が期待された自動翻訳についても、従来は、単語と文法をその国の言語に転換すれば良いと考えられていたが、実際にはそれほど簡単でないことも明らかになった。

 現在、スマホの自動翻訳機能などが実用化されているではないか、という向きもあるだろうが、蜀犬としてはとても使う気になれない。仮に蜀犬が日本の習慣に疎いアメリカ人で自動翻訳機を使って日本人の女性に対して、"How old are you?"と尋ねた時、自動翻訳機は何と訳すだろうか?
 一番マズいのは「あなたは何歳ですか?」と直訳する場合である。日本では女性に年齢を聞くことは非常に失礼なことと思われているので、こんな質問をすれば、品性のない人間だと内心で軽蔑されるかもしれない。AIが「この翻訳の対象は男性ですか?女性ですか?」と尋ね返して、注意を喚起してくれる機能が最低限必要だろう。話の間を途切れさせないと言う点では、「今日の天気はどうなるでしょうか?」と適当に意訳してくれれば、取り合えず会話を繋げることができるので、なお良い。
 一方、英語の慣用表現に、 It's raining cats and dogs. というのがある。これは、「空から犬と猫が降ってくるような騒がしい雨」つまり、「土砂降り」のことである。これを「犬と猫の雨降り」と直訳されても、会話に困ってしまう。
 つまりに、何気ない日常会話であってもその背後には文化的な習慣や特殊な慣用表現といった膨大な暗黙知(バックデータ)があり、その暗黙知なしには会話が成立しないということである。この膨大なバックデータをどうやって収集し、コンピュータの翻訳に活かすか‥。第5世代コンピュータ開発で行き詰ったのも、実は、当時のソフトウェア開発では膨大な暗黙知まで手が回らなかったのである。
 このように、1980年代に既に言語の理解には文化的な背景の理解が不可欠であることが既に判っていた。ところがそれにも関わらず、2000年代になってAIに入試問題を解かせて東大入学を目指すという『東ロボ君』プロジェクトがスタートした。膨大な暗黙知の課題をいかに克服するかと思ったが、過去の入試問題から統計的に推定するという乱暴な手法を使い、しかも教師データ(入試問題の数)が少なかったため、満点からは程遠い結果となってしまった。結局、国語や古典など言語文化が絡む問題について根本的な解決ができず、東ロボ君プロジェクトは中止となっている。
 現在、生成AIの技術が実用化されているが、これはその後、インターネット技術の発展により、大量の翻訳データ(=教師データ)を人手することができるようになったことと、文化、習慣といった暗黙知をAIに理解させるのではなく、単に統計的な観点で相応しい翻訳をするという方法を使っているからである。コンピュータが提示した複数の翻訳文をユーザー側が選択すると言う方法も、教師データとして統計処理の強化に役立っていることは言うまでもない。
 さて、このように発展した生成AI技術であるが、2045年にシンギュラリティは到来するだろうか?

 それは、第5世代コンピュータ開発失敗の検証で既に答えがでている。すなわち、人間の思考モデルが解明されていないのに、人間の知性を越えるAIの構築など不可能、ということである。

 人間が数百年かかっても答えを計算できない複雑な計算であってもスーパーコンピュータはアッという間に答えを出す。また、話題のChatGPTのように、人間の質問に適切に答える生成AIも開発されている。たしかにAIの進歩は著しい。
 しかし、AIに「1個120円のリンゴ5個と1個80円のみかん7個を買ったらいくらになるか?」といった小学低学年の算数は回答できない。

 もちろん、¥120×5十¥80×7= という具合に、人間が計算式に変換して入力する等の方法を用いればAIは正確な回答を出すが、文章題の内容を理解して計算式に変換する能力はないのである。
 そもそもこの文章題自体
  ・ モノの価値を通貨という共通の単位に換算できること。
  ・ 価値の交換手段に通貨が使われ、その単位が円であること。
  ・ りんごやみかんなどの果物が容易に入手可能な流通システムがあること
  ・ そこでは果物の価値ごとに単価が付けられていること
  ・ 果物ごとの単価から価値(価格)を合算できること
といった暗黙知の理解があって、初めて計算できるのである。
 ちなみに、学習障害のある児童にこの種の問題を解かせると、りんごとみかんというまったく別の種類のものを合算するという概念自体が理解できないそうである。

 また、立川志の輔師匠の新作落語「親の顔」では、「10個のみかんを5人の子供に分配すると1人何個になるか?」という算数の問題に対して、「味、サイズが微妙に違うので、完全に平等に分配はできない。だから10個のみかんをジュースにして5人の子供に分配すれば、完全に分配できる」という珍解答した子供が登場する。算数的には間違っているが、公平に分配という観点を追求すれば、意外に正解かもしれない。

 このように、たかが小学生の算数ですら、意外に多くの暗黙知を含んでいるのである。その小学生の算数すら解けない今のAIが人間の知性を超えるシンギュラリティに到達するなど、杞憂どころか笑い話にもならないだろう。
(2023年10月時点では計算できなかったが、その後2024年1月時点で一応、答えは出せた。ただし、前提条件を入力した時点で勝手に答えを予想して回答しておりとても回答出来ているとは言えない)

 尚、話題のChatGPTの能力がどの程度か、いくつか検証してみたので、興味のある方は、当ブログ内の「AI問答シリーズ」を一読いただきたい。