中学時代の校長先生の思い出

 長く生きていると、いろいろな人との邂逅があるが、今回は蜀犬にとって忘れられないひとりである中学時代の校長の思い出について書いておきたい。

 蜀犬の中学時代、校長はH先生という方だった。ごつい黒縁眼鏡かけ、ボサボサで長めの髪、背は低かったが、声は大きい方だった。
 全校生徒の前で話すのは、毎週月曜の全校朝礼の時であったが、話し方がべらんめえ口調だったせいか、初対面の印象は、やはり、『おっかない先生』であった。

 全校朝礼では、低血圧気味の女子生徒の気分が悪くなり、担任に付き添われて列を離れることがよくあった。そんな様子を見た校長先生は、「俺は若い頃戦争に行き、満州の平原で朝から晩までずっと歩哨で立っていた。君らももっとたくましくならなきゃいかんぞ!」と、全校朝礼の場でよく言っていた。 今なら、この発言、大問題だろうか、当時は妙に納得したものである。

 そんなH校長だったが、毎年冬になると背広(当時やスーツよりこちらの方が一般的な呼び名だった)の上から紺色のジャンパーを羽織って、校内を歩く姿を見かけたものである。このジャンパーというのが、いわゆるドカジャンという土木作業員が着るようなタイプのものだった。

 蜀犬が中学2年の時、クラスが校長室の掃除担当となり、数ヶ月に一度、クラス内の各班で校長室の掃除に行っていた。

 H校長は掃除の邪魔にならないように、たいていの場合、不在だったが、たまに掃除が終わった頃に戻って来ることがあり、掃除を終えた生徒たちと一緒に雑談することがあった。
 ある時、蜀犬の悪友が、寄せば良いのに、「校長先生はなぜ、いつもドカジャンを着てるんですか?」と尋ねたことがあった。

「お前たちが学校の外で何か悪いことをすると、この学校に刑事がやって来る。俺はお前たちを守らなければならないから、位負けしないようにこんな格好をしてるんだ」

と、H校長は愉快そうに言っていた。この答を聞いてから、蜀犬の心の中でH校長に対する苦手意識が少しだけ低くなったのは事実である。

 そして、蜀犬がH校長のことを本当に凄い人だと思ったのは、中学3年になったばかりの4月である。その日は、新一年生が入ってきて初めての全校朝礼だった。

「新一年生の皆さん、入学おめでとうございます。皆さんは……」という生徒会長の歓迎挨拶があり、その後に新入生の答礼挨拶があったのだが、その答礼の中に、「勉強ばかりやるガリ勉にならず、スポーツやクラブ活動にも頑張っていきたい」という言葉があった。

 今でも使われているかどうか知らないが、当時、蜀犬が学生だった時には、「ガリ勉」と言う言葉があった。鉛筆をガリガリいわせて、一心不乱に黒板の板書をノートに書く奴という意味で、勉強は良くできるがそれ以外はダメ、人付き合いが悪く、利己的、というネガティブイメージだった。

 昨日まで小学6年だった生徒が今日から立派な事を言えるわけはないので、おそらく、答辞の元ネタがあったのだと思うが、まあ、言いたいことは理解できるだろう。
 現在の校長先生だったら、「中学生活3年間は、勉強ばかりでなく、スポーツや部活に頑張ってください」と言うかもしれない。

 ところが、全校朝礼を締めくくるH校長の講話の第一声は「おい、お前ら!」であった。

「おい、お前ら! 今、ガリ勉にならずにとか言ったがな、学生の本分は勉強にある。そういうことはまずガリ勉をやってから言え!」

 H校長は、いつものべらんめえ口調で叱るように言ったのである。新一年生にとっては、ビックリ仰天の第一声だったと思う。

 ここからは蜀犬の推定だが、おそらく、H校長は、『ガリ勉にならない』、という言葉の裏に『勉強をしない』という言い訳の匂いをかぎ取ったのだと思う。

 まず、やらなければならないことを第一にやるべきであり、余計な言い訳をして後回しにするな。それは、結局、卑怯な逃げのスタンスだ、ということなのだ。

 この当時、中学3年になったばかりの蜀犬はこう理解した。以後の蜀犬の人生を振り返ってみても、やはり、H校長の教えが無意識に出ていることがよくあった。

 今では、中3時代の15歳を何倍も超える年齢になったが、この時のH校長の言葉は、今でも頭の中にはっきりと浮かんでくる。

巨大恐竜の謎

 巨大恐竜の謎については、「AI問答:巨大恐竜の謎」で、概説済みである。その後、SNS上で巨大恐竜の生存について議論を交わしたのであるが、テキストのやりとりだけで議論を深めるのはかなり難しかった。  
 そこで、今回は、巨大恐竜の謎についての理論的な考察を残しておくことにした。
 なお、本レポート執筆に当たっては、恐竜絶滅と重力の謎について言及した権藤正勝氏の著作、および、増田由紀夫氏の調査ファイル 「巨大恐竜の謎」 (File No.08333;Far East Reserch Co.Ltd)を参考にしていることを予め断っておく。


1.2乗3乗の法則

 蜀犬が少年時代に読んだライト兄弟の伝記に載っていたエピソードがある。ライト兄弟の父親は巡回牧師をしていて、普段からあちこちの村を巡って布教していたのだが、ある時、おみやげとして当時流行っていたおもちゃを買ってきてくれた。そのおもちゃは、ゴム動力でプロペラを回して飛ぶ飛行模型だった。手先が器用だった兄弟はその構造を理解すると、同じものを自作して飛ばしていた。さらに兄弟は、その飛行模型を2倍サイズに拡大したものを作ったのだが、なぜかうまく飛行できなかった、というものである。

 

図1:ペノーのヘリコプターと一條卓也氏の再現モデル

 ここでポイントとなるのが2乗3乗の法則である。例えば、質量10グラム、1センチメートル角の立方体が一個あったとする。これを2センチメートル角の立方体に拡大すると、どうなるだろうか? 一辺の長さが2倍になると、一辺の面積は2の2乗倍つまり4倍となる。立方体の体積(質量)は2の3乗倍つまり8倍、80グラムとなってしまうのである。

 

図2:立方体の2倍に長さにすると

 ライト兄弟が飛行模型のサイズ(長さ)を2倍にして製作した際、動力源のゴムも単純に2倍にしていたのであるが、質量は8倍となるため、プロペラを回すゴムの量を8倍としなければ、増加した質量に対応した推力を発生できないのである。飛行模型はまともに飛べなかったのは当然であるといえよう。

 これが2乗3乗の法則である。

 この2乗3乗の法則はいろいろな分野で使われるが、生物における体重(質量)と筋力の関係でも当てはまるのである。生物の筋力はその断面積で決まるのだが、断面積当たりの筋力は1平方センチメートル当たり3~4㎏f で、これは小はネズミから大は象まで変わらない。
 身長が2倍になれば、筋肉の断面積は2の2乗倍、つまり4倍となる一方、体重は2の3乗倍つまり、8倍となる。要するに筋力の増加より体重の増加の方が大きいということである。
 このことを敷衍すれば、身長を倍にすれば、筋力は2乗倍、体重は3乗倍に増えるため、最終的に増加した体重が最大筋力を上回った場合、その生物は自力で立ち上がることができなくなる、ということである。

 この推定の正しさを見るために、主な動物の体重と筋力を調べると、次のようになる。なお、体重と筋力は荷重であり、単位はN(ニュートン)であるが、判りやすくするため、あえて、工学単位であるkgfで表記してある。

図3:動物の体重と筋力の関係

 このグラフでは、体重10kgfの犬の最大筋力は140kgf、体重100kgfのイノシシの最大筋力は600kgf、体重10000kgfのマンモスでは最大筋力は14000kgfとなっているが、最大筋力に対する体重の比率を見てみると、犬では14倍、イノシシでは6倍、マンモスでは1.4倍となり、体重が軽い方が発揮できる最大筋力が大きいことが判る。ゾウが犬並みの高いジャンプ力を発揮できないことも、このグラフから説明できる。

 合衆国でソフトウェアエンジニアをしているテッド・ホール氏は、このグラフ上に体重3200kgfのアパトサウルスを載せてみた。すると、発揮できる最大筋力は3100kgfとなる。つまり、体重が最大筋力を上回っているため、アパトサウルスは立ち上がることができないことになる。ホール氏は、このグラフから、体重30トンが生物の限界であり、「巨大恐竜は立ち上がることができなかった」と主張した。
  ところが、過去の化石から復元された巨大恐竜は、セイスモサウルスで体重40トン以上、ブラキオサウルスでは体重80トン、そして最大と言われるアルゼンチノサウルスでは 体重100トン以上にも達しているのである。

 この矛盾に対する生物学者の見解は、説明不能としてあえて不問にしているそうだ。一方、恐竜の化石を研究する古生物学者からは、足跡の化石も実在し、巨大恐竜が実際に立って歩いたことは事実だとして、矛盾を最初から無視しているという。

図4:1億7000万年前の恐竜の足跡の化石

 

2.巨大恐竜の存在を説明する仮説

2-1.軽量化説
 巨大恐竜生存の矛盾を説明する第一の仮説は軽量化説である。つまり、巨大恐竜の推定体重は誤りであり、現在の動物にはない体を軽くする仕組みがあったというものである。
 この恐竜の体重推定であるが、一般的な流れとしては、まず、化石から全体骨格を復元した模型を作り、それに粘土を肉付けしたうえで、水槽に沈めれば、増加分がその模型の体積となる。後は、求められた体積に現存する動物の平均密度を掛けてやれば、体重を推定することができる。
 もちろん、鳥類の場合は軽量な骨格構造、気嚢などの軽量化器官が存在するため、そこがら翼竜については、正確な体重推定は困難であるといえる。
 しかし、陸上動物である恐竜が現存する生物と身体の構造がまったく異なるとは考えられず、セイスモサウルスやアルゼンチノサウルスについても誤差範囲の違いはあっても、推定結果がまったく間違っているとは言えないはずである。
 従って、軽量化説については、陸上動物の具体的な軽量化構造が提示されない以上、説得力に欠けた仮説の域を出ないと言えよう。


2-1.代謝説

 代謝説とは、恐竜が爬虫類から進化した変温動物か、鳥類の先祖となる恒温動物か、という問題において、体が巨体化すれば、体内に熱を蓄積できる特性(慣性恒温性)が持てるようになり、代謝が高くなり、巨大化したというものである。仮に巨大化したとしても、筋力と体重の関係から体重30トンが限界であり、それ以上の巨大化は不可能なはずである。つまり、この代謝説も、筋力と体重の矛盾の説明を最初から無視しており、説明になっていないと言えよう。


2-2.酸素濃度説

 以前にテレビで巨大金魚の映像が話題になったことがある。水槽の中にエアレーションで酸素を流すというものだが、実は、世話をしっかりとしてやれば、もともと水の浮力があり、直接重力の影響を受けにくい金魚は、生育環境を整えてやれば全長30センチ程度まで成長することは可能なのである。一見、酸素が金魚巨大化の要因と思うかもしれないが、事はそう単純ではないのである。

 さて、今から3億年ほど前の石炭紀にメガネウラと呼ばれる翼長70㎝ほどの巨大トンボが飛んでいた。これだけのサイズの昆虫が自由に飛翔できたのは、当時の酸素濃度が高かったからだ、と言われている。昆虫には動物のような肺はなく、体表面に開けられた気門という空気吸入/排出口が直接体内の気管と繋がっており、昆虫が腹部を収縮すると、気門から気管に向かう空気の流れが生じ、これによって、呼吸活動を行っているのである。当然ながら、酸素濃度が高ければより効率的に呼吸することができる。  
 この結果、運動時の酸素量が効率よく確保できるので、巨大化したという理屈である。
 しかし、動物の場合、口から取り入れられた酸素は、肺で血液中のヘモグロビンに取り入れられ、血液が全身を巡る課程で酸素が供給される。確かに、酸素吸入器を使えば循環系への負担が減るという効果はあるものの、それが、巨大化要因になるとは考えにくい、仮に巨大化しても体重30トンの限界を超える理由にはなっていない。
 つまり、酸素濃度説は、昆虫巨大化の原因は説明できても、動物の巨大化の説明にはならないのである。


2-3.重力変動説

 先に挙げた動物の筋力と体重の関係は、現在の地球の重力下での話である。仮に地球の重力が現在の半分になれば、体重3200kgfは1600kgfと半分になる一方、筋力は310kgfなので、巨大恐竜は問題なく立ち上がることができる。
 ここで、問題となるのは、重力が本当に変動するのか?ということである。重力を決める物は、地球自身が持つ万有引力と自転で生じる遠心力のふたつである。地球の自転速度が早くなれば、当然遠心力も大きくなり、万有引力との差が小さくなるため、重力も小さくなる。

 

図5:重力と万有引力と遠心力

 地球が誕生したばかりの46億年前では、地球の1年は2000日、1日は5時間という超高速度で自転していたと言われている。46億年後の現在では、地球の1年は365日、1日は24時間である。恐竜が闊歩していた1億5000万年前は、1日はいったい何時間だったのだろうか?
 このことを検討する前に、巨大恐竜が抱えるもうひとつの問題について触れておきたい。


3.血圧

 あまり議論されていないが、巨大恐竜については、筋力と体重の限界を突破した存在という外に、もうひとつ別の謎が存在する。ここではそれを論じてみたい。
 さて、動物のうち哺乳類の血圧を比べると、以下のようになる。

図6:主な哺乳類の血圧

 ここで注目すべきはキリンの260㎜Hgである。実に人間の2倍以上である。というのも、キリンは身長5mで、地上から3mのところにある心臓は、さらに2mの高さにある脳に大量の血液を押し上げなければならないからだ。それだけではない。キリンが地上の水を飲む場合、頭を下げることになるが、この際、水面から心臓までの高さは3mほどになるが、それにプラスして、首の血圧内の血液の重さに相当する静水圧220㎜Hg(30000/13.5)が加わり、心臓から脳に送られる分の血圧260㎜Hgと合わせて、
480㎜Hg もの圧力が一度に頭に加わることになる。
また、水を飲んでいる状態から急に頭を上げると地表0mから一気に5mの高さまでの変化ということで、今度は370㎜Hg(50000/13.5)分の血圧の低下が一気に起こり、脳貧血を招きかねない。
 ところが、そこはうまくしたもので、キリンの首の静脈には逆流防止のために静脈弁が数か所あり、さらに、後頭部にワンダーネット(奇驚網)と呼ばれる網目状の毛細血管の塊が急激な血圧変化を慣らすダンパー機能を持っており、体内の急激な血圧変化を防ぐようになっているのである。
 なお、マッコウクジラのような大型のクジラが尾を振ると、体内の血管が圧縮されて巨大な血圧変動が発生するが、その変化は「奇網(retia mirabilia)」と呼ばれる静脈と動脈からなる巨大な血管網で吸収する仕組みが存在している。

 ここで、太古に存在した巨大恐竜の復元像から巨大恐竜の血圧を推定してみたい。体重80トンのブラキオサウルスの場合、地表から心臓までの高さを4.5mとすると、心臓から脳までの高さは概算で9.5mである。

図7:ブラキオサウルス

 この高さまで液体を送るのにどの程度の圧力が必要か、であるが、高層マンションの地表に置かれたポンプから4階のシャワーヘッドまで給水する場合、高さ9mとすると、

      9mH2O=662㎜Hg≒0.9kgf/㎠

となる。

図8:マンションの給水ポンプの圧力計算例

血圧662㎜Hgはキリンの260㎜Hgの2.5倍である。工学単位で考えれば0.9kgf/㎠となる。実に1平方センチメートルに900gの荷重がかかっているのである。まさに、想像を絶する超高血圧である。
 さらに、ブラキオサウルスが首を上下に動かせば当然大きな血圧変動が生じることになるが、それは前述したキリンの逆流防止弁やワンダーネット(奇驚網)のような構造で対処できるとしても、逆流防止弁は圧力損失となるため、9mH2O(662㎜Hg)以上に圧力損失分を加えた血圧が必要となるのである。
 以上のことを考えた場合、本当に巨大恐竜は生存できたのであろうか?

 

4.地球の自転速度

 巨大恐竜の体の構造と生存の矛盾を解くための有効な仮説として、地球の重力が現在より小さいという仮説を提示した。
 先に述べたように、重力を決める物は、地球自身が持つ万有引力と自転で生じる遠心力のふたつである。地球の自転速度が早くなれば、当然遠心力も大きくなり、万有引力との差が小さくなるため、重力も小さくなる。

図9:地球の引力と遠心力

 

 ここで、地球の自転が及ぼす重力と万有引力、及び遠心力の関係について計算してみたい。一応、基本的な計算式も載せておく。

図10:地球の引力と遠心力の計算例

 現在の地球は、赤道半径:6378.14km,自転周期:86164.1sec(23時間56分4.1秒)、自転速度:465m/sec(=1674km/h)であり、質量1㎏に作用する遠心力は、0.034Nである。
 仮に、自転速度が現在の10倍になったとすると、自転周期:8616sec(2時間23分36秒)、自転速度:4615m/sec(=16743km/h)となって、質量1㎏に作用する遠心力は、3.39Nである。遠心力の効果により、万有引力は34.6%相殺されることになる。
 地球の自転速度が現在より数倍の速さになった場合の遠心力の効果をまとめたのが表1である。

表1:地球の自転速度、自転周期、重力

 遠心力の効果により、重力が現在の半分になるためには自転速度12倍であり、この時の7180.3秒、時間にすれば、1日が2時間弱の長さとなる。

 また、自転速度が現在の17倍になれば、遠心力と万有引力が相殺されて重力がゼロとなるが、この時の自転周期は1時間24分となる。

 今回の重力計算は権藤正勝氏の計算を参考に行ったが、権藤氏の著作に自転速度が記載されていない訳がようやく理解できた。重力を半分にするためには自転速度が1日2時間というのは疑問を感じざるを得ない。確かに、質量が地球の318倍、直径が地球の11倍という巨大惑星の自転時間は10時間であるが、これは、ガス型惑星だから可能なのであり、地球のような岩石で構成された惑星が1日わずか2時間という超高速自転を行っていたとは俄かに首肯しがたい。
 しかし、巨大恐竜が太古に生存していたことは化石の発見から事実であり、現在の1G環境では生存が不可能であることも数々の推測から事実である。

 ここで新たな疑問として湧き上がってくるのが、本当に地球は太古から現在まで質量、直径といった基本的な数値はまったく変化していないのか、ということである。
 例えば、大陸移動を説明する説として、19世紀に主張された地球膨張論がある。現在主流の学説であるプレートテクトニクス説の登場により、半ば忘れ去られた学説であるが、完全に否定された訳ではなく、一部の研究者の間で支持されている。
 プレートテクトニクス説によれば、現在の大陸は超古代にパンゲアと呼ばれる大陸がプレート運動によって移動したことになっているものの、いうことになっているが、超古代大陸パンゲアの復元図を見ると、テーチス海と呼ばれる内海が存在しているが、これは現在の地球の曲率(半径)に合わせて大陸を集合させた結果生まれたもので、もし、地球の曲率(半径)を小さくすれば、テーチス海も消滅し、完全な大陸となる、という説も説もある。かつて、アルフレッド・ウェゲナーは、大陸移動の証拠として、南米大陸とアフリカ大陸の化石の類似性に注目したが、巨大な内海であるテーチス海も両端で化石の類似性が見られることも、その傍証と言えるではないだろうか?

図11:超大陸パンゲアとテーチス海

5.まとめ

  1.   巨大恐竜は体重と筋力の関係式から外れている。
  2.   巨大恐竜の血圧を計算すると、生物の限界を超えている。
  3.   軽量化構造説、代謝説、高濃度酸素説など従来の説では、巨大恐竜生存の謎を説明できない。
  4.   巨大恐竜の生存を説明する説として地球の重力が現在よりも小さかったとする説がある。
  5.   ただし、地球自転の遠心力で重力を減らすためには、地球を桁違いの速さで自転させる必要がある。
  6.   現在の地球の成り立ちについては、プレートテクトニクス説が主流であるものの、地球膨張説については完全に否定されていない。
  7.   巨大恐竜生存の謎の解明には、太古地球についてのさらなる研究の進展が不可欠である。

 

◆ 参考文献および資料

・ ジュラシック・ミステリー 恐竜絶滅と重力の謎  権藤正勝 著 2002年7月15日第1版発行 学習研究社  ISBN4-05-401691-X

・模型飛行機とグライダーの工作 一條卓也 著 昭和37年5月25日第1版発行 誠文堂新光社  

虫もゾウも人間も…結局みんな同じ法則に従う!?  体重と筋力・代謝の不思議な関係

 

 

雑学ミステリー【最新】巨大草食恐竜ブラキオサウルスまとめ! 

 

Gigazine 2020年05月15日 07時00分

 

デイリーポータルZ 4年かけて全国の「重力」を測る飛行機 2019年7月29日

・調査ファイルNo08333 巨大恐竜の謎  
Agent Yukio Masuda(Kashiwagi Inspection Team ,Far East Reserch Co.Ltd)

 

国土地理院ホームページ

 

 

・  マンション管理組合目線 中小マンション直結直圧給水可否をポンプ設定で検証する

 

 

・幻の超大陸「パンゲア」の謎 飛鳥昭雄・三神たける 月刊ムー No167  学習研究社

間違いだらけの下町ボブスレー開発

 2026年2月27日は、NHKのドキュメンタリー「Dearニッポン」で「覚悟の下町ボブスレーと大田区町工場の技術力」という番組が放映された。その翌週の3月6日 テレ東系ワールドビジネスサテライト(以下、WBS)で「不屈の町工場!下町ボブスレーのDNA」が放映されていた。どうやらまた、あの「下町ボブスレー」が話題になっているらしい。

 さて、今では黒歴史であるが、あのトヨタが自動車レースの最高峰F-1に挑戦したことがあった。結果、2002~2009年までの8年間に莫大な資金を投入したあげく、一勝もできなかった。そして、トヨタがF-1初挑戦した年、NHKで「トヨタ F-1への挑戦」が放映された。いかにもその年の終わりにはF-1初優秀するようなノリであったが、結果は先に書いた通りである。この番組の中では、技術陣が設計、基本的なテスト、実車走行といった一連の開発過程が描かれており、それなりに初優勝の説得力があったことは確かである。
 F-1マシンに限らないが、一般的な新技術開発の場合、設計→試作部品の基礎テスト→組み上がった完成品を実際と同じ状況でテスト→不具合点を洗い出し→設計にフィードバックという一連の流れがある。

 もし、下町ボブスレーチームがボブスレーを開発するのであれば、当然、設計→走行テスト→不具合点のフィードバックといったことが行われるはずであるが、NHKにもWBSにもそのようなシーンはまったく出てこない。いったい下町ボブスレーはどこの誰が設計しているのであろうか? また、ボブスレーの走行データを計測してそれを設計にフィードバックして改良する話がまったく出てこないのはいったいなぜだろうか?

 下町ボブスレーについては、蜀犬もいろいろな意味で個人的に注目してたが、今回は、元・開発エンジニア視点で下町ボブスレーについて語ってみたい。


1.下町製ボブスレー開発の黒歴史

 下町製ボブスレーの開発が始まったのは、2011年に大田区の某職員が「大田区でも具体的なものを通して技術力をアピールできないか」と区役所にプロジェクトを提案したことから始まりである。

 ボブスレー開発のきっかけについては、株式会社マテリアル 代表取締役で、東京商工会議所大田支部の理事でもある下町ボブスレープロジェクトのゼネラルマネージャー・細貝純一氏によれば、
 「ボブスレーの開発経験はないが、大手企業が参入してないから勝ち目があると思った」
「当初の目標はソチ・オリンピック(2014)でボブスレー日本代表の公式マシンになること」
だそうである。

 ボブスレーの知識は完全にゼロだったため、仙台大学からメンテナンスをすることを前提にソリを借りて来て分解調査した。中を見ての感想は「こんなもんか」。

 こうして一連の試作が始まるのであるが、当初は日本のボブスレーチームに供給する予定であったが、ボタンの掛け違いが起こったことから、日本代表チーム用に選ばれなかった。

 ネット情報のみで真偽は不明であるが、日本チームが初めて下町ボブスレーを見た時、「なぜ、製作する前に相談してくれなかったのか?」と言ったと伝えられている。
 また、第1号機はボブスレーのレギュレーション(競争用の機体に関する機体の大きさ、重量などの規定)を最初から無視していたため、改めて2号機をゼロから作り直したという話もある。

 下町ボブスレーのカウリング下のフレームは真っ赤に塗られているが、日本チームから黒に塗り直せ、というリクエストがあった。理由は、試合中に待機場にある他チームのボブスレーをカウリングの下から覗き込んでノウハウを探るという行為が良く行われている。秘密が漏れるのを防ぐため、フレーム自体も黒く塗装して内部を見にくくするということであった。これに対して、下町ボブスレー側の答えは「赤は情熱の色」ということであった。

 結局、下町ボブスレーは日本チームには採用されなくなっため、いろいろ運動した結果、ジャマイカボブスレーチームに採用されることになる。ところが、海外での国際大会で使用するにも関わらず、現地で運送会社のストライキが行われていることに気付かなかっため、下町ボブスレーが現地に到着しないという事態が発生した。ジャマイカチームは止むを得ずコーチが持っていたBTC社製ボブスレーを使用したところ、下町より高性能だったことが判明した。
 この結果、ジャマイカチームは下町ボブスレーの使用を拒否した。これに対して、下町ボブスレー側は法的手段に訴えると宣言したため、日本国内で大問題となった。

 なお、下町ボブスレー側は平昌オリンピック用の機体を用意したが、完成した下町製ボブスレーにレギュレーション違反があることが発覚し、結局、使うチームはなかった。細貝代表によれば、「すぐに修正できる軽微な違反」であったそうだが、そもそも完成した納入品に問題があれば、その時点で突っ返されても文句は言えないのが普通である。

Wikipedia の「下町ボブスレーネットワークプロジェクト」によれば、開発された下町製ボブスレーは下表のようになっている。

表1:下町ボブスレー・スペック

表2:下町ボブスレー実績

 ボブスレーの特徴として、全長が長い方が空力的には有利となり、一方、全長が短ければ、選手がボブスレーを押して初期加速を稼ぐのに有利となる。一覧表を見ると、下町製ボブスレーは空気抵抗低減よりも初期加速に重点を置いて製作されているようである。

 蜀犬自身の経験で言えば、初期開発の段階で不具合を徹底的に洗い出し、その対策を施したうえで基本仕様が完成するのであるが、下町製ボブスレーがこれだけ様々なタイプが試作されているのは、いったいどうなっているのだろうか?
 
 ガイアの夜明けでは、2025年9月、ボブスレー強豪国・ドイツ出身の技術者、ペーター・ヒンツ氏が来日した時のエピソードが描かれていたが、なんと、ヒンツ氏は普段から図面を描かないため、下町チームが要望を聞いて部品を調整するというとんでもないやり方が紹介されていた。

 ヒンツ氏が次々と出してくる細かい修正点を町工場側が対応するのであるが、ソリが形になってきたところで、ヒンツ氏が「ソリの骨組みとなるフレームの取り付け角度が違う」と指摘されてしまった。
 ヒンツ氏のアイデアは、フレームをつなぐ真ん中のブロックに対し、パイプをそれぞれ傾斜角をつけて取り付けることで、ソリの刃に対してブロックが角度分だけ傾き、急カーブでもなめらかに走れるというものだった。
「0~3度まで全て実際にテストした。選手からのフィードバックが一番良かったのが3度だった」ということで、理想的な角度3度になるはずが、下町製ボブスレーはできていなかったのだ。で、下町得意の短期間の改修で、なんとか仕上げるというものだった。

 こういったやり方に対する蜀犬の感想は「モノづくりを舐めるな!」である。そもそも何かのモノを作る時、設計図なしで作ることなどあり得ない。何故なら、初期図面に不具合対策をフィードバックしていくことで完成図面が仕上がり、それは開発で得たノウハウそのものだからである。

 また、図面があれば、複数の工場に同時発注して同じボブスレーを一度に複数製作することも可能である。これにより本番用、テスト用、強度解析用などの用途に合わせたボブスレーを使って同時並行で開発を進めることができる。図面なしで作るなど、モノ作りの基本から言って、あり得ないのである。
 なお、ヒンツ氏の例のように、図面は描けないがノウハウはあるという場合、真横で意見を聞きながら3Dモデルを作ったり図面を修正するといった方法も可能である。実際、蜀犬も現役の開発エンジニア時代、ベテランエンジンチューナーのアドバイスや要望を聞きながら目の前で3Dモデルを作ったり、完成図面を修正したことがあった。


2.蜀犬流ボブスレー開発

 下町ボブスレー開発の問題点を明らかにするため、蜀犬自身の経験を基に、一般的な開発体制について説明したい。

 レースに出場するレーシングマシン、あるいは、新コンセプトの商品などをゼロから新規に開発する場合の一般的な開発段階をボブスレー開発に当てはめると次のようになる。

  1)設計コンセプトの決定
 まず第一にやることは、ボブスレー競技のレギュレーションを落とし込んだチェックリストの作成である。開発するボブスレーがレギュレーション違反をしては元も子もない。そこで、具体的なチェックリストを作っておくのである。
 次に、競技に使用するボブスレーの種類、2人乗りか、3人乗りか、そのためのサイズの概略、目標とする重量などを決める。
 さらに、空力性能を狙うため、模型を使った風洞実験、流体シミュレーションなどにより、基本的な外形デザインを決める。なお流体シミュレーションや模型実験はあくまでも初期段階であり、ある程度形が決まれば実物大風洞を使うことが必要である。


  2)全体設計 
 空力特性からカウリングのデザインが決まり、それを元に、内部のフレーム構造、各種部品の配置といった全体的な形状を決めていく。

  3)全体設計チェック
 全体設計が完成したら、機械設計、部品製作、ボブスレー競技経験者、その他有識者を集めて、全体図面の不具合点を洗い出す。

  4)修正版全体設計
 設計チェックで指摘された不具合項目を修正した全体設計図を作る。当然この段階でも最終チェックを実施し、実際にモノを作るに値するかの判断が行われるのは言うまでもない。

  5)モックアップ作成
 全体設計図をベースにしてモックアップモデル(全体設計図と同じ外観の実物大木製模型)を作成する。


  6)モックアップチェック
 競技経験者にモックアップモデルに乗ってもらい、発進後の乗り込みやすさ、乗り込み後のヘルメット等のクリアランスを確認する。

  7)全体設計完成
 設計チェックでの指摘項目の修正およびモックアップモデルでの不具合事項の修正を反映した全体設計図を作成する。これが完成図となる。

  8)部品図作成
 完成図面を基に構成部品ひとつひとつの詳細図面を作成する。

  9)試作
 構成部品の詳細図面を基に各部品の試作を行う。なお試作する部品については、本命ボブスレー用、予備ボブスレー用、走行テスト用、単体試験用と、最低でも4個分の試作が必要である。

 10)試作品組立て
 完成した部品の寸法諸元をチェックし、問題がないことを確認した後、試作品の組み立てを行う。なお、事前に完成図面に基いた組立て治具を作成しておき、この治具に完成した部品を置いて、溶接等の組み立て作業を行う。これは1メートルを超える大型部品を図面通りに正しく組み立てるためである。

 11)試作部品耐久テスト
 単体試験用部品を使って、一定の荷重をかける耐久試験を実施、充分な耐久強度があることを確認しておく。

 12)計測部品取り付け
 走行テスト用ボブスレーに各種計測器を取り付け、走行時のデータを収集できるようにしておく。

 13)プロトタイプ実走テスト
 ボブスレーを実際に走らせて、走行性能、空力特性といった性能を確認する。この時、計測器を使ってリアル計測データを収集する。

 14)不具合項目洗い出し
プロトタイプの実走で判った不具合点を洗い出して、各不具合項目の対策を実施する。(橇の取り付け角度、ハンドリングのチェック等)

 15)プロトタイプ改修→完成
不具合項目の対策を実施後、再度実走テストを行って効果を確認する。予備ボブスレーと同じ改修を本命ボブスレーにも施して、完成。

という一連の流れがあるのだが、なぜか下町ボブスレーでは最上流の設計部分の映像が流れてこないのが不思議である。

 

3.下町ボブスレーへの提言

3-①目標

 黒歴史で、日本のボブスレーチームとのボタンの掛け違いがあったと書いたが、それはこういうことである。下町ボブスレーの目標は、『オリンピック出場チームにボブスレーを提供することで、オリンピックに出場したボブスレーとそれを達成した大田区町工場の技術力』ということをアピールし、新たな仕事を受注することだった。これを翻訳すれば、「オリンピックに出場したボブスレーに大田区町工場が製作した部品が使われている」というのが目的ということになる。

 一方、オリンピックに出場するボブスレー(に限らないが)選手の目標はあくまでも金メダルである。つまり、金メダルを取る手段として下町ボブスレーを使うのであって、もし金メダルを取れる可能性がなければ使わない、ということになる。

 要するに参加することが目的の下町プロジェクト側と金メダルをもぎ取ることが目的のボブスレー選手では、元々の目的が全く違うのである。(要望を無視してフレームを赤く塗ったことなどは代表例であろう)

下町ボブスレー:相変わらずフレームは赤い

 もし、下町ボブスレープロジェクトがオリンピックを通じて技術力をアピールしたいのであれば、まず、選手に使ってもらうことが第一であり、それにはただ参加するのではなく金メダルを目標としなければならない。ここで、過去の先人の例をいくつか挙げておく。

 A.毛利元就
 戦国大名の雄、毛利元就が安芸郡郡山城主だった12歳の時、厳島神社に参拝したのだが、その時、家臣のひとりが「我が殿が中国地方を平定できますよう」と願をかけた。それを聞いた元就は「日本国を制するように願え」とたしなめたという。
 元就は続けて、「日本国を制するように願ったとて、実現できるとは限らない。最初から中国地方10カ国平定を願うようでは、せいぜい2~3国しか奪えまい」と言ったそうである。

 かつて、事業仕分けで某国会議員が言った「2位じゃ、だめなんですか?」の答えがここにある。1位を狙って頑張っても1位になれるとは限らない。最初から2位を狙うようでは3位にもなれないということなのだ。

 

 B.金星エンジン
 昭和初期、軍部が日本の航空技術の自立化を進めていたのに呼応して、民間会社でも国産エンジンの開発を推進していた。そのうち、日本を代表する2大航空機メーカーの中島飛行機は、海外からの技術導入によって国産エンジンの開発に成功していた。
 その一方、ライバルの三菱重工では4年間という時間をかけて現在の価値で100億円以上の費用を使いながら、完成したエンジンが一台もないというありさまだった。
 最大のユーザーである軍部からも、「三菱はエンジン開発をやめて機体一本に絞っては?」と言われる始末であった。焦った三菱の上層部は、造船部門から深尾淳二を呼び寄せ、エンジン部門の改革に当たらせることにした。

 深尾がやったことは、

 ① 空冷エンジン優先:
当時、空冷か水冷かの論争があったが、戦時での量産性を考慮して開発する空冷エンジン一本に絞ることを決めた。

 ② 開発体制の変更:
従来は、ひとつのエンジンにひとつのチームで開発に当たっていたが、チーム編成をエンジン前部(ギヤボックス)、エンジン中央部(ピストンとシリンダ)、エンジン後部(機械式過給機、燃料ポンプなどの補器類)に分け、複数のエンジン開発を並行して行えるようにした。

③世界から学べ:
 世界の代表的なエンジンを研究し、その長所をそっくり真似した。

といったことである。

 しかし、より重要なことは、エンジン開発部門のエンジニアたちに放った第一声である。それは、「世界一のエンジンを作れ」ということだった。
「軍の指導に従って試作した方が軍に採用されやすいという事情はあるが、軍は細かなところにまで干渉し過ぎる。要は世界一のエンジンを作れば軍の方でも使ってくれるだろう。諸君も日本国内で通用するエンジンで良いという思いにとらわれるな」というのが深尾の言葉だった。

 三菱重工が航空用エンジンを勝手に自主開発していることにヘソを曲げた軍部は、完成した新型エンジンに必要以上に苛酷な耐久テストを実施した。
 これに対してこの新型エンジンは楽々と耐久試験を乗り切り、遂に軍部もこのエンジンを「金星」として採用を決めたのである。
 金星エンジンは、海軍の九六式陸上攻撃機に採用され、後に非武装化した機体が大阪毎日新聞社主催の世界一周機「ニッポン号」として世界一周飛行を行ったが、エンジン関係のトラブルはまったくなかったという。

 これらの先例から言えることは、目先の小さな目標を狙っていては、大きな飛躍はできないということである。下町ボブスレープロジェクトも、オリンピックに出場するボブスレーに採用されていることを示して仕事量を増やす、ということより、下町の技術力を結集して、オリンピックで金メダルを獲る、というより高い目標を掲げるべきであろう。

 

3-②設計ノウハウ

 オリンピック選手御用達のボブスレーとしては、BTC(Bobsleja Tehniskais Centrs:ボブスレー技術センター)社(本拠地ラドビア)のものが有名である。BTC社の社長(創業者)は、元々ボブスレーのオリンピック選手であったが、事故のために引退を余儀なくされた人物である。オリンピックの夢を断たれて落ち込んでいた時に、選手で培ったノウハウを今度はボブスレーの製作に活かせ、と友人に励まされたことがきっかけで誕生したというドラマチックないきさつを持つ会社である。社員は10人以下という小さい会社ながら、その高性能はオリンピック選手たちの間で高く評価されている。それどころか、ボブスレー開発に欠かせないカウリングについても、ヨーロッパの大手自動車メーカーが実物大風洞の使用に便宜を図ってくれるほどだという。(ある意味でBTC社こそ真の下町ボブスレーと言えるかもしれない)
 こんなすごいメーカー相手に、下町製ボブスレーがオリンピックで金メダルをもぎ取ろうというのだから、BTC以上の開発ノウハウを短期間で蓄積する必要がある。

 ところが下町ボブスレー関連の資料を調べてみても、どのようにして実走テストをやっているのかがまったく出てこない。もしかして、ボブスレーは作りっぱなしで、後はワールドカップ等のぶっつけ本番でテストしているということなのであろうか?

 ここで思い出されるのが、クルト・タンク技師の逸話である。クルト・タンク技師は、『第二次大戦ドイツ最良の戦闘機』と連合軍が評価したフォッケウルフFw190の開発を主導、戦後、アルゼンチンやインドへ渡り、それらの国々での国産ジェット戦闘機開発を指導した人物である。もちろん、実際にはタンク技師ひとりではなく、彼に付いていった設計・製造スタッフがいたのであるが、何しろ実験用の風洞設備もない所である。
 そこで、風洞実験の代わりとしてタンク技師が考え出したが、実物大グライダーである。機体の外形をベニヤ板製のグライダーに仕上げ、これを実際に操縦することで、機体の性能を確認したのである。
 
 ロクなノウハウもない(と思われる)下町ボブスレーが短期間でBTCに追いつくためには、ぶっつけ本番をやめて早期にノウハウを収集しておく必要があるということだ。そのために絶対に必要なのは、走行データの収集システムの構築である。

 1980年代、自動車レースの最高峰F‐1グランプリレースにホンダが復帰した時、F-1レースは勘と経験の世界だった。それに対して、ホンダは、F‐1マシンにさまざまなセンサを取り付け、走行中の車体挙動やエンジンの作動状況をテレメータ(走行中の車体挙動のデータをピットに送ってリアルタイムで情報解析を行えるシステム)でデータを送信する、という画期的な方式を構築した。

 また、元日産エンジニアの水野和敏氏は、趣味でレース活動を手伝ったことがバレて、ニッサンのレース部門であるニスモへの異動を命じられた。ちなみに、水野氏自身は量産部門からレース部門に異動になった時、左遷されたと思ったそうである。
 ニスモは、レース一筋で勘とコツを重んじる職人エンジニアの世界だった。水野氏は量産エンジニアとして培ってきた計測技術をレースの世界に持ち込み、テレメータによる実走時の挙動計測、数値に基づいた改良を行い、やがて、常勝するようになった。

 今やF-1などレースの世界では、テレメータシステムの装備が常識である。下町ボブスレーも短期間で開発効率を上げるためにはテレメータシステムが必須となる。

 

3-③ 通年テストコースの建設

さて、ボブスレーの滑走中のデータが計測できるようになった時、必要となるのは、通年で実走テストが行えるボブスレーのテストコースである。

 ここで、ChatGPTにボブスレー用通年テストコースの建設について質問したので、結果の概要を書いておく。

  • ボブスレーの氷上コースを完全に再現することは、氷の特性から言って困難であり、常設の氷上コースが必要である。
  • ただし、 「氷の再現」ではなく「チューニング可能な疑似氷」にならば、可能である。
  • コース表面にUHMWPE(超高分子量ポリエチレン),HDPE(高密度ポリエチレン)など低摩擦材を貼り、表面には細かな溝を付け、ミストを噴射することで、疑似的な氷を再現することは可能である。
  • ボブスレーの速度レンジ(直線、カーブ、高低差などのコースレイアウト)に応じてミスト(擬似的な潤滑膜)量を細かく制御し、実物の氷に近い状態を再現できれば、かなり現実のコースに近づけられる。
  • このような代替コースで前後の重量配分や剛性の違いをテストすることができる。
  • ただし、最終的には氷上での判断が必要となるため、代替コースのみでのテストでは決められない。
  • 速度減衰、コーナリングG、操舵応答などのデータを氷上と代替コースで比較することで、「樹脂での結果 → 氷での予測」が可能となる。
  • 実際にうまくいく領域(非常に相関が出やすい領域)として、重量配分,剛性,操舵性,ライン取りではかなり信頼できる結果が出せる。
  • 工夫すれば使える領域として、空力がある。速度を上げる,データ補正を入れるといったことが必要となる。
  • 理想的な開発フロー:① 樹脂コース→ 大量試験・高速改善
              ② データ蓄積→ 差分モデル構築
              ③ 氷上テスト→ 最終検証
              ④ モデル更新
              ①~④のループを繰り返す
  • 通年テストコースの概要は下表のとおりである。

  

表3:通年型ボブスレーコースの建設費
  • 現実的な戦略としては、いきなりフルコースを造るのではなく、段階を追って造る。
      ・フェーズ1: 200〜300mの試験コース(1〜3億円)でデータ収集と技術検証
      ・フェーズ2: 延伸・高度化
  • 通年型テストコース構想の価値は 「氷コースの1/5〜1/10のコストで開発拠点を作れる」こと。
  • 通年テストコースのアイデアは、工学的に正しい,実用的,競技的にも価値が高い。
  • ただし成功条件は: 「樹脂→氷の変換モデルをちゃんと作ること」
  • 通年テストコースの最終評価: “完全再現”ではなく“補正前提の開発環境”として非常に有効である。

※ 当初の蜀犬のアイデアは、ボブスレーに車輪付きボブ(いわゆるローラーボブ)を
  付けて、疑似的な再現を狙うものであったが、ChatGPTと議論した結果、実際のボ
  ブスレーの挙動とは大きく異なることが判ったため、採集的に樹脂コース+ミスト
  案となった。

※ 1998年長野オリンピックのボブスレー・リュージュ会場として使用されその後、
  2017年に使用を停止した長野市ボブスレー・リュージュパークの場合、建設費は、
  50〜150億円以上で、非常に高額な冷却設備が必要となるが、この通年型テストコ
  ースははるかに安価に造ることができる。ボブスレー選手が練習のために海外の競
  技場を借りていることを思えば、はるかにコスパが良いと言える。


4.まとめ

  1. 目標を「下町ボブスレーで金メダルを取る」という、より高い目標に変更すべきである。
  2. 国(オリンピック助成金)、団体(ボブスレー連盟)、大学等の協力を仰いでボブスレーの通年テストコースを建設する必要がある。
  3. 国内自動車メーカーの協力を仰ぎ、計測システムを構築する必要である。
  4. これらのことをやって短期間でボブスレーの設計ノウハウを構築する体制を作るべきである。

というのが、現状の下町ボブスレープロジェクトに対する蜀犬の提言である。

 この提言を実行せず、従来通りの開発を続けていては、おそらくプロジェクト側の希望が短期間で叶う見通しは暗いであろう。

 

◆ 参考資料


・ 下町ボブスレープロジェクト公式サイト
・ 目指すはソチ五輪──町工場の夢をかけた下町ボブスレープロジェクト
・ Wikipedia「下町ボブスレーネットワークプロジェクト」
・ WBS「不屈の町工場!下町ボブスレーのDNA」
・ NHK【Dearにっぽん】“覚悟”の下町ボブスレーと大田区町工場の技術力

1896年のキューバ危機

1.明治日本 大陸進出への野望?

 明治維新によって近代化の道を歩み始めた日本は、やがて大陸進出への野望を抱き、一時は満州国という傀儡国家を作るまでになったものの、1945年の敗戦によって全てを失うこととなってしまった、というのが、現在、社会一般における近現代史の一般的な解釈である。
 日本が大陸進出への野望を持っていたというのは歴史上の定説となっているが、実際の国際社会における軍事戦略から考えるならば、安全保障という重要なポイントがすっぽり抜け落ちているといっても過言ではない。いわゆる歴史研究者は文系の学者であって、政治の専門家でもなければ軍事の専門家でもないからである。

  一方、明治日本の日清・日露戦争を扱った古典的名作ともいえる司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、

>朝鮮を他の強国に取られた場合、日本の防衛は成立しないということであった。
>(中略)
>日本は朝鮮半島が他の大国の属領になってしまうことをおそれた。
>そうなれば、玄界灘をへだてるだけで日本は他の帝国主義勢力と隣接せざるを得
>なくなる。

などと、日本の安全保障上の問題を提起しているものの、侵略の具体的な方法論については一切言及されていない。

 また、1957年に公開された映画「明治天皇と日露大戦争」では、冒頭で、「日本は帝政ロシアの極東政策に飲み込まれる云々」というナレーションが出てくるものの、やはり、侵略の具体的方法論については述べられていない。

 昨今のウクライナ戦争、また過去のヨーロッパでの戦争を見れば、陸続きの国であれば国境を越えて大軍が侵攻するというのは、ごく一般的な出来事である。
 しかし、元寇や豊臣秀吉の朝鮮侵攻の例を見ればわかるように、海を隔てた島国に大軍を送り込むことは容易なことではないのである。仮に、清国やロシアがノルマンディー上陸作戦のように上陸用舟艇を仕立てて大軍を日本本土に上陸させる可能性については、当時の清国やロシアの海軍力から考えれば、まずあり得ないと言えよう。

 いったい明治政府は何を恐れていたのであろうか?


2.戦略兵器としての戦艦

 さて、「幕末~日露戦争における海軍戦略」サイトによれば、当時の日本の状況を安全保障上の重要な観点は、軍艦と軍港である。

 ここで幾つか例をあげてみたい。

(1)薩英戦争
 1862年8月21日、生麦村を通過中だった島津久光の行列に4人の英国人が無作法を働いた結果、英国人が無礼討ちされた。いわゆる生麦事件である。英国側は自国民を殺傷した犯人の引き渡しと賠償金を求めたが、薩摩藩がこれを拒否したため、英国側は軍事行動を起こした。これが、薩英戦争である。1863年8月、鹿児島湾に乗り込んだ英海軍と薩摩藩の間で戦闘が行われたが、特筆すべき点は
  ① 薩摩藩の陸上砲台を英軍艦の艦砲射撃で破壊
  ② 英軍艦の艦砲射撃(ロケット弾)で民家、武家屋敷等が消失
という2点である。

(2)四か国艦隊下関砲撃事件
 1863年、幕府より出された攘夷命令により、長州藩は下関海峡を通過する外国船に対して陸上砲台から無通告で砲撃し、英・仏・蘭・米の船に被害が出た。その後、仏・米艦隊の報復攻撃を実施し、艦砲射撃により長州藩陸上砲台は壊滅した。後に、明治政府と李氏朝鮮との間で発生した江華島事件にも見られるように、この当時、報復攻撃はごく一般的なことであった。

(3)函館戦争
 1868~1869年、北海道は函館周辺において勃発した明治新政府軍と旧幕府軍との戦闘では、制海権を握った新政府軍の軍艦が陸上要塞の五稜郭に対して艦砲射撃を実施した。

(4)八甲田山雪中行軍遭難事件
 日露戦争前の1902年1月に発生した有名な事件である。弘前第8師団歩兵第5連隊から総数210名が八甲田山雪中行軍演習に参加し、199人(救助後の死亡者を含む)が死亡した。そもそも、なぜこのようなことが計画されたかであるが、第8師団歩兵第5連隊の当初の行軍計画では、「ロシア艦隊が津軽海峡・陸奥湾を封鎖して、艦砲射撃による鉄道破壊(弘前~青森、青森~八戸)が予想され、その場合、青森から八戸行くために三本木(現・十和田市)を経由する八甲田山系縦断ルートを想定した」ことであった。つまり、艦砲射撃による鉄道破壊を想定していたことが判る。

 以上のことから判るのは、軍艦による艦砲射撃は、陸上を制圧する有効な手段だったということである。 つまり、当時の軍艦は、あたかも敵の都市を直接攻撃できる戦略爆撃機やICBM(大陸間弾道弾)に匹敵する戦略兵器であった。これを当時の安全保障の観点から見れば、直接本土に軍隊を上陸させなくても、その国の生殺与奪権を握ることは可能、ということである。

 

3.戦艦から日本列島を防衛する

 地政学的な観点から言えば、周囲を海に囲まれた島国は大規模な陸上軍を送ることが困難であり、侵攻が困難であると考えやすいが、その反面、島国の沿岸部は全て艦砲射撃の対象になっているのである。

 この危険性に対して、徳川幕府が行った対応が「お台場」、つまり沿岸砲台を作る事であった。しかし、日本列島は中央部に急峻な山岳地帯があるという地形的な特徴から、人々の生活環境は必然的に沿岸の平野部ということになり、鉄道や道路などの交通インフラも沿岸に作られることになるが、沿岸すべてに砲台を築いて防衛することは事実上困難である。

裏取りデータがないので真偽不明であるが、司馬遼太郎の『坂の上の雲(2)』「日清戦争」編には、以下のようなエピソードが書かれている。

>明治二十五年、プロシャ留学から帰国して参謀本部次長になった川上操六は
>鉄道会議議長となって「海岸線は敵の艦砲射撃をうけるではないか。一朝有事
>のさい、軍隊輸送がそれによって大いにはばまれる。鉄道はよろしく山間部を
>走るべきである」と主張した。
>この当時、東海道線はすでに開通していたが、中央線、山陽線その他は敷設計
>画中であった。九月、鉄道の主管大臣である逓信大臣黒田清隆の官邸でその
>会議がひらかれ、逓信省側がその精細な実測図と計画案を出したが、川上はこ
>れに異論をとなえ、「海岸暴露線はやめよ」とあくまでも主張し、川上の意見を
>とおすとなれば山間にトンネルを無数にほらねばならず、そのための経費がぼう
>大になるという理由で、会議は大いに紛糾した。

 例えば、山陰線を建設する場合、多くの街は沿岸にあるので、鉄道も沿岸沿いに建設する方が便利である。川上案のように中国山地の尾根伝いに鉄橋やトンネルを建設して鉄道を通し、そこから、港まで山間部を縫う形で鉄道を繋げば艦砲射撃のリスクを減らすことができる。しかし、それでは、トンネルや鉄橋が必要な途轍もない大工事となり、当時の政府予算では実現不可能である。

 その一方、沿岸に築かれた長大な鉄道路線全てを沿岸砲台で守備するなど、実際問題不可能であるとすれば、残る手段は制海権を確保する、すなわち、周辺国よりも強力な軍艦の艦隊=海軍力を保持し、敵艦隊の跳梁を実力で排除できる能力を持つしかない。

 

4.地政学から見た釜山

 明治政府が成立し、近代化政策によって海軍力の整備をしていた当時の日本の状況では、日本よりも周辺国の方が海軍力が充実していたという真逆の状況であった。
 清国がドイツに発注した軍艦「定遠」、「鎮遠」は東アジア最強と言われていたし、日清戦争後、ロシア帝国が旅順港に強力な艦隊を配備する状況が続いていた。

 ここで、開国したばかりの明治日本にとって安全保障上重要な位置が、朝鮮半島の「釜山」である。石炭を燃料としていた当時の軍艦は、長距離航海をするための補給港が必要であった。もし、日本列島を挟んだ日本海沿岸に釜山港に軍艦を配備されると、敵国は釜山港を拠点として、日本海沿岸地域を自由に砲撃することができる。
 ちなみに当時の領海は4カイリであり、これは艦砲の射程距離を前提に決められたと言われている。つまり、4カイリより内側に入れば、それは敵国を砲撃可能なことを意味しているのである。
 さらに、シベリア鉄道が朝鮮半島にまで延伸されれば、ヨーロッパと釜山が直接つながることになり、石炭、弾薬等の軍艦戦力を維持するのに必要な物資をヨーロッパから直接供給することが可能になる。
 それに対抗するには、明治の日本も海軍力を整備し、釜山に配備される敵艦隊と同等の艦隊を日本海側の軍港に配備する必要があるのだが、残念ながら、生まれたてホヤホヤの明治日本にとって海軍戦力は一艦隊しかなかった。仮にこの艦隊を日本海側に配備すると、今度は、重要な政治経済拠点が林立する本土の太平洋側がガラ空きとなってしまう。(帝政ロシアの海軍戦力は旅順艦隊とウラジオストック艦隊に2分割されていたが、一個艦隊分の戦力がほぼ日本の連合艦隊に相当した)

 つまり、当時の明治政府にとって釜山港に敵艦隊を入れないことは日本の安全保障上の致命的に重要な問題だったのである。

 この種の国際的な軍事感覚は日本人には判りにくいが、太平洋戦争開戦前、アメリカは日本に圧力をかけるため、太平洋艦隊の根拠地を米本土のサンディエゴからハワイ諸島のパールハーバーに移し、また、英国は、日本の南方進出を警戒して、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスという当時の強力戦艦を派遣したことからも推察することができる。自国の国境近辺に対抗兵器を配備することは、敵国に対する無言のメッセージなのである。

 最近では、アメリカがグァム島にステルス爆撃機B2を配備したが、これも中国・北朝鮮に対して、イザとなったら首都を核攻撃する、という明確なメッセージである。

 このことから逆に考えれば、釜山に軍艦を配備することは、日本海沿岸地域を砲撃することができる、という無言の意志表明に他ならない。仮に外交交渉をする場合でも、最初から圧倒的に不利な条件に交渉に入ることになる。

 結局のところ、日本の安全保障上、朝鮮半島の港である釜山を敵国に利用させないことが重要であり、そのためには朝鮮半島が緩衝地帯となることが必須ということになるのである。


5.李氏朝鮮の対日政策

 明治維新当時、朝鮮半島を支配していたのは李氏朝鮮王朝であった。過去には豊臣秀吉による2度の朝鮮侵攻(文禄の役、慶長の役)があったものの、徳川幕府とは外交関係を築いており、李氏朝鮮側も朝鮮通信使を定期的に日本に送ってた。その理由のひとつとして、日本人が朝鮮の文化を尊重していたことよる。実際、朝鮮の儒学者・李退渓の著作は江戸時代に日本の学者たちに大きな影響を与えていた。荻生徂徠が中国本来の古典を研究することを提唱したのは、逆説的に言えば日本の儒学がいかに朝鮮版に頼っていたかという傍証である。
 ところが、徳川幕府が倒され、明治政府が成立すると、李氏朝鮮側の態度がガラリと変わる。儒学的価値感に毒された李氏朝鮮の要人から見れば、西洋人など野蛮な存在であり、日本の西洋化を推進する明治政府は、いわば堕落と映ったのである。また、朝鮮儒教の考えでは、格下の人間に自らの立場を判らせるために尊大な態度をとり、無礼に扱うことは格上の人間の当然の態度と考えていたのである。明治政府の外交官に対する李氏朝鮮側の無礼な態度は、西郷隆盛が征韓論を主張するきっかけになったとも言われている。

 ここで、朝鮮王朝の伝統的な思考は、『事大主義』である。事大=大に事〈つか〉える、ということである。中華思想によれば、世界の中心に中国皇帝がいて、辺境の支配者は全て中国皇帝が任命する王である。辺境の王が皇帝に使者を送れば、その答礼として、中国皇帝から高価な中国産の文物が下賜される。貧しい辺境の国にとってはボロい商売である。かつて、室町時代の日本でも、足利義満が明の皇帝から日本国王の称号を与えられたが、これも、下賜される文物が狙いだったと言われている。
 李氏朝鮮王朝にとっての『事大』は、中国(清)王朝に仕えることであった。ところが、「東洋の眠れる獅子」と言われた清国が日本に敗れたことで、それまで中国一辺倒だった事大主義は新たな『大』に付く必要が出て来たのである。
 李氏朝鮮にとっての新たな『大』は、明治日本か、帝政ロシアか、ということになるが、当時の日本とロシアを比較すれば、どちらが『大』に相応しいか、自ずと答は出る。


6.1962年のキューバ危機

 時は米ソ冷戦の真っ最中、世界の平和は米ソの核ミサイルの均衡によってバランスを取っていた。米ソ双方が自国領土内にある基地からICBM(大陸間弾道ミサイル)を発射すると、約30分で着弾して、双方の主要都市上空で核爆発が起こり、万単位の人間が瞬時に死傷する。米ソどちらか一方がICBMを発射すれば、それは相手国の報復攻撃を招き、世界は滅亡する。米ソ冷戦期、この恐怖の均衡によって平和が保たれているのである。

 1962年10月、ソ連はアメリカ本土に近くにあるキューバに核ミサイル基地を建設しようとしていた。キューバの核ミサイル基地からワシントンを狙えば、約10分で着弾する。この時間差を利用して先制核攻撃すれば、アメリカが反撃する前にソ連が一方的に勝利を収めることができる(かもしれない)。

 アメリカから見ればキューバの核ミサイル基地は喉元に突き付けられた匕首〈あいくち〉である。このため、アメリカはキューバにミサイル基地の建設資材を運ぶ輸送船を阻止するため海上封鎖を実行した。もし、ソ連の輸送船が海上封鎖を突破すれば第3次世界大戦が勃発する、と世界が身構えた。結局、ソ連はキューバへの核ミサイル基地建設を中止し、第3次世界大戦の危機は去った。これがいわゆる「キューバ危機」である。 


7.1896年のキューバ危機

  明治日本は、当時李氏朝鮮を属国扱いしていた清国と戦った日清戦争で勝利し、1895年4月17日に下関条約が締結された。その結果、清国の軍港があった旅順を含む遼東半島の日本への割譲、李氏朝鮮の独立が認めさせた。ところが、ロシア、ドイツ、フランス3国の圧力、いわゆる三国干渉によって、日本は遼東半島を清国に返還した。その後、ロシアがちゃっかりと遼東半島を租借したのである。
 李氏朝鮮の伝統的対外政策であり『事大主義』によれば、次に事〈つか〉える『大』は帝政ロシアということが明確に示されたのである。
 
 大陸における日本の影響力が後退すると、下関条約からまだ3か月も経過しないうちに、甲午改革によって政権を追われていた李氏朝鮮第26代国王高宗の妃である閔妃とその一族はロシア公使カール・イバノビッチ・ヴェーバーとロシア軍の力を借りてクーデターを行い、1895年7月6日に政権を奪回した。

 閔妃一派にも事情もあっただろうが、日本の安全保障上の立場から言えば、極めてマズい事態であった。日本の安全保障のキーポイントである釜山を清国から解放したといと思ったら、さらに、強大なロシアを招くことになったからである。

 その結果、1895年10月8日、日本の駐朝公使・三浦梧楼が閔妃を反日の元凶と見なし、日本軍や浪人を指揮して王宮に乱入し、閔妃を惨殺した。事件後、閔妃の遺体は凌辱されてから焼かれたという。この事件は、朝鮮の民衆の反日感情を強め、1896年には「国母復讐」を掲げた義兵闘争が起こるきっかけとなってしまったのである。

 さらに、決定的な出来事が起こる。露館播遷(ろかんはせん)である。この時期、閔妃殺害事件に関与したメンバーによるクーデターが計画され、高宗は危機的な状況に追い込まれていた。1986年2月11日、ロシア総領事カール・イバノビッチ・ヴェーバーが個人的に高宗にロシア公使館の避難所の提供を持ちかけたことで、高宗は世子(純宗)と共に宮女の供を借り、そのかごに乗ってロシア公使館へ逃げ込んだ。高宗の逃避は、公使館へ向かう過程で様々な困難に直面しながらも成功した。この逃亡により、高宗は自らの身を守ると共に、ロシアの支持を得る手段を得たのである。
 大韓帝国のトップがロシア公使館に逃げ込んだことによって、大韓帝国自ら、次の事大は帝政ロシアと全世界に公言したことになり、それは同時に、釜山が帝政ロシアのものになることを意味していたのである。

 カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』によれば、「戦争は政治の延長であって、政策達成の手段」である。明治日本政府は、帝政ロシアとの外交交渉で朝鮮半島からロシアの影響力を排除する交渉を重ねる一方、帝政ロシアとの戦争に勝利するため、日英同盟を結んで国際社会での立場を優位にしつつ、戦争準備を始める方向に舵を切ったのである。
 そして、帝政ロシアとの交渉が無意味だと明治日本政府が悟った後、運命の1904年2月6日、日露戦争が勃発するのである.。

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◆ 参照

・ 坂の上の雲(二)司馬遼太郎 新潮文庫(ISBN978-4-416-710577-8)

・ 幕末~日露戦争における海軍戦略

・ 八甲田山雪中行軍遭難事件

顕彰 緒明亮乍

 今回は、歴史に埋もれたある男について語ることにする。

 太平洋戦争の敗戦により日本の国際的な立場は失墜したが、日本の国際的地位挽回のために国際科学研究プロジェクト:国際地球観測年(1957年 7月1日~1958年 12月31日)に参加することになった。

 具体的には、当時、未知の大陸であった南極大陸への観測隊派遣である。南極大陸周辺は南氷洋と呼ばれ、一面氷という苛酷な環境である。当時の日本には南氷洋で活動可能な砕氷船がなかったため、第2次大戦前に建造された砕氷船を改造することにした。それが、海上保安庁所属の『宗谷』(PL107)である。南極観測までわずか2年という限られた時間の中、『宗谷』 の砕氷能力を強化する改造作業が突貫作業で行われた。このエピソードは、NHKの『プロジェクトX』でも取り上げられていた。

 当時、日本が南極大陸に探検隊を派遣し、越冬観測を成し遂げたことは、敗戦に打ちひしがれていた当時の国民にとって大きな希望となったのである。そして、彼は、『宗谷』の砕氷能力を強化するための改造図面の作成に関わっていたのだが、『プロジェクトX』に名前が出ることはなかった。

          【 南極観測用砕氷船『宗谷』 】

 

 宗谷の砕氷能力が南氷洋での航行に不十分だったため、新たに建造された第2代目の南極観測用砕氷艦として、『ふじ』が建造されることになった。海上自衛隊艦番号はAGB-5001で、1965年から1983年まで運用された。彼は、この当時、海上自衛隊2等海佐であり、主任設計者として『ふじ』建造に関わっていた。

          【 南極観測用砕氷艦『ふじ』 】

 

 また、彼が戦後に関わったものに、大陸棚を調査するために北海道大学が建造した吊り下げ式の有人潜水探測機『くろしお』がある。『くろしお』が潜行中、深海中に無数のプランクトンの死骸が漂っているのを発見し、これを「マリンスノー」と名付けたことで知られている。彼は設計を指導しただけでなく、試験潜航では乗員として乗り込んでいた。

        【 潜水探測機『くろしお』図面 】

 

 さて、日本海軍は、太平洋戦争開戦前に、艦船を魚雷で攻撃する2人乗りの小形潜航艇を開発した。これが特殊潜航艇・甲標的である。甲型は、バッテリー駆動のため水中最大速力19ノット、水中巡航9ノットで15.8浬(29.3km)しか航行できなかったが、後に、水上での航続性能を大幅に向上させた甲標的丁型『蛟竜』が開発された。『蛟竜』はディーゼルエンジン駆動の発電機を搭載しているため、水中最大速力6ノット、水上巡航8ノットで1000浬(1852km)も航行できた。さらに狭い艦内の居住性を改善するため、フレオンガスを使った小型冷房装置まで付けられていた。この『蛟竜』こそ、彼が海軍の技術士官として開発に関わったものであり、彼は、いわば日本における潜水艦の第一人者であった。

      【 特殊潜航艇・甲標的丁型『蛟竜』】

 

 このように、戦中戦後の造船史のみならず、海洋観測や南極観測等の分野において大きな足跡を残した彼の名前は、緒明了乍(おあきりょうさく)である。

これだけ多くの功績を残しながら、ネット上では、かなり詳細に検索しないとヒットしない。

例えば、

歴史が眠る多磨霊園チャンネル

歴史が眠る多磨霊園

昭和館デジタルアーカイブス 丸 第21巻7号(第254号) 
   にっぽん”水中高速潜”設計夜話(元海軍技術少佐 緒明亮乍)

昭和館デジタルアーカイブ 造船官の記録(造船会著)1966(昭和41年)5月
 二本の仮締めボルトー堀内康雄、中川勝也両技術少佐の思い出(緒明亮乍)

潜水船開発の変遷

などである。

 ネット全般で検索すると、一番詳しいのは「歴史が眠る多磨霊園」が最も詳しいが、後は、過去に執筆した雑誌等の記事執筆者として名前が出るくらいであり、当然ながらウィキペディアには名前が出てこない。まさしく、その生涯を抹消されたといっても良いだろう。

 緒明氏の生涯について一番詳しく載っている「歴史が眠る多磨霊園」から主な業績を抜粋すると、次のようになる。

  • 1937年、東京帝国大学卒業後、技術大尉として任官し、特殊潜航艇の甲標的丁型『蛟竜』の設計を担当。
  • 1949年、北海道大学の潜水探測機『くろしお』(ケーブル釣り下げ式)の設計を指導。『くろしお』第2回に行われた有人潜行では、安全や装置作動の確認のために搭乗。
  • 1951年8月19日、『くろしお』に、緒明氏、井上直一教授、村尾記者の3名が乗船して相模湾の水深206mまで潜水。
  • 1954年、横浜国立大学講師を兼務。
  • 1957年海上自衛隊二等海佐に任官し、海上幕僚幹部技術部艦船課および防衛庁技術研究本部で開発官となる。
  • 1956年からの初代南極観測船『宗谷』の砕氷船への改装を手掛ける。
  • 1965年就役の二代目南極観測船『ふじ』の主任設計者を務める。
  • 1970年海将・船舶担当技術開発官を最後に退官。
  • 1974年、芙蓉開発の潜水球うずしお』(下半分がアクリル樹脂製)が、千葉県岩井漁港沖での潜水訓練中に海難事故が発生し、乗組員2名死亡。アドバイザーを務めていた緒明は、海難事故の責任を感じて事故の数日後に鉄道に飛び込み引責自殺した。享年59歳。

 要するに、緒明了乍氏が最後に手掛けたプロジェクトで起こった人身事故に関連したスキャンダルによって、過去の素晴らしい実績もすべて抹消されてしまったのである。

 ところで、技術者のスキャンダルとして有名なものは、ディーゼルエンジンを発明したルドルフ・ディーゼル失踪事件がある。現在、世界中に広く普及し、様々な分野で活躍しているディーゼルエンジンであるが、発明当初はそれほど高く評価されず、発明者のディーゼルは、イギリス海峡を横断する客船から行方不明となってしまっていた。おそらく、発明が売れず経済的に困窮したため精神を病んで投身自殺したと言われている。

 しかし、悲惨な最後を遂げたことと、人類の役に立つ発明をしたことは切り離して考えるのは当然であろう。実際そう考えたヤンマーディーゼル山岡孫吉社長は、ディーゼルの故地に顕彰する碑を建てている。

 緒明了乍氏の功績を考えれば、そろそろ封印を解除しても良いのではないだろうか。偉大なる先輩エンジニアに対して心からの賛辞を送りたいと思う。

 

参考文献

・幻の秘密兵器 木俣滋郎著 光人社 ISBN4-7698-2204-9 C0195

海底地質調査用としての『くろしお号』佐々保雄 石油技術協繪誌 第20巻第4號(昭和30年7月)

日本海軍小型潜水艇全史 勝目純也 歴史群像157号 学研

 

 ◆ 蛇足その1:ヴァルター機関

 蜀犬が緒明氏のことを紹介しようと思ったのはまったくの偶然で、不思議な縁を感じたからである。

 蜀犬が少年の頃に愛読していた小沢さとる先生の海洋冒険漫画『青の6号』に原子力でもディーゼルでもない「ワルター機関」という動力を使った潜水艦が登場したことがあった。この「ワルター機関」を図書館で調べた時、百科事典に詳しい内容が載ってい
たので、コピーしておいた。
 最近になってそのコピーを見つけ、PDFに変換したのであるが、その時に、記事を書いたのが緒明氏であったことを知り、氏に興味を持ったからである。やはり、これも何らかの縁ということであろうか。

 このヴァルター機関(ワルター機関は英語読み)は、ロケット戦闘機メッサーシュミットMe163に使われたことでよく知られており、ヴァルターロケットエンジンについても、詳しい解説書が多数出ているが、ヴァルター機関の潜水艦用動力については、文章で簡単に記載されるのみで、詳細な図はないと言ってよい。

 緒明了乍氏の功績を紹介する意味で、潜水艦用ヴァルター機関の図を転記しておく。

      【ⅩⅦG型潜水艦用ヴァルタータービン機関】

 UボートⅩⅦG型は水中最大速力21.5ノットを発揮できたが、114浬(211km)しか航走できなかった。そこで、発明者のヴァルターが開発したのが、間接式ヴァルタータービン機関であるが、開発中に終戦となり、実用化には至っていない。

          【間接式ヴァルタータービン機関】

 緒明氏の記事では、水中速力と航続力の関係を示すグラフが記載されているが、これを見ると、ヴァルタータービン機関が緊急時のブースターにしか使えないことがよく判る。

             【各種潜水艦用動力の性能比較】

 

蛇足その2:潜水球うずしお』の事故

 現在、執筆中です。

女シャーロックホームズ

 今回は、蜀犬の友人N先輩から聞いたエピソードを紹介したい。

 N先輩は蜀犬が勤務していた会社で知り合ったのだが、当然、家庭があるのは、関東の通勤圏内である。

その当時、N先輩には高齢のご母堂がいたのだが、遠く離れた実家にひとりで住んでいた。N先輩は結婚後、子供たちが小さいうちは実家に帰省していたのだが、子供たちが大きくなり、N先輩の奥さんも働き始めてからは、一家で帰省というのは難しくなる。
 そこで、お盆と正月の連休時、N先輩はひとりでご母堂に会うため帰省していたのである。
 そんな中で、娘さんが大学生、息子さんが高校生になった時、N先輩とお子さんたち2人で久しぶりにご母堂に会いに行くことになった。ご母堂は大きくなったお孫さんたちの姿を見て喜んでいたのだが、ある時、N先輩はご母堂に「ちょっとこっちに来なさい」と呼ばれたのである。
 何事かと思ったN先輩は身構えたのだが、
「食事の後片付けを孫娘ちゃんが手伝ってくれたのだが、食器乾燥器の使い方を見て驚いたのだ。」と言うのである。
 N先輩の実家にある食器乾燥器は、手洗いした食器を乾燥器内に立てて置き、カバーを掛けた後、タイマーをセットすると温風が出て来て、食器を乾燥させる仕掛けである。食器乾燥器で食器を乾かすには、温風の循環と、水滴の流れを考えて、お皿や茶わんをきちんと立てておかなければ、いくら温風式食器乾燥器でもうまく乾かない。

「孫娘ちゃんはお皿も茶わんもゴチャゴチャ積み重ねている。あれでは、温風がうまく
 流れないので、食器はいつまでたっても乾かない。
 ああいうことができないのは、きっと嫁子ちゃんがきちんと教えていないのだろう。
 嫁子ちゃんのおかあさまはしっかり躾のできる人だと思っていたのにね。
 あれでは将来孫娘ちゃんがお嫁に行った時に恥をかくから、お前がさりげなく注意し
 ておきなさい。」
とのことだった。

 お盆休み明けに自宅に戻ったN先輩は、奥方の家事の様子をさり気なく注視したのだが、ご母堂の推察通りで、乾燥器に食器を積み重ねて置いていたのである。それまで気にしたこともなかったので、まったく気付かなかったのだ。当然、食器には水滴がついているので、食器棚に仕舞う際には、丁寧に拭いておかなければならない。ちなみにN先輩の家の食器乾燥器は食器を立てに並べて自然乾燥させるタイプである。
 その後、N先輩は食器洗いを手伝うようになったのだが、手洗いし終わった食器を食器乾燥器に立てて置くと、自然乾燥でもちゃんと完全に乾いたそうである。

 これらのことからN先輩が改めて思ったのは、あのコナン・ドイルの探偵小説シャーロック・ホームズだったそうだ。ホームズが依頼人の帽子に煤やロウが付いているのを見てその人物の行動パターンを推定したり、出会った人物がズボンの裾が汚れているのを見てトンネルを掘っていると察するシーンなどが出て来るが、それまであれは小説だけの話で、実際には無理だろうと思っていたそうだ。

 ところが、N先輩のご母堂は、孫娘ちゃんが食器乾燥器に食器を並べる光景から嫁子さんの家事を推察し、しかも、見事に当てている。まさに、女シャーロック・ホームズである。

 N先輩のご母堂は昭和ひとケタ生まれで、地方の田舎出身、最終学歴は小学校卒である。その後、若くしていろいろな仕事を経験し、N先輩が子供の頃には新聞や週刊誌、小説などを普通に読んでいたから、読み書きは普通にできるということになる。
 一方、N先輩の奥方は大卒である。ある意味、小卒の知恵に大卒の知恵が負けたといえるかもしれない。

「いくら学力があっても、観察力や知恵がなければ、生かせないということだね」、とN先輩は蜀犬に語ったくれた。

 N先輩からこの話を聞いて、蜀犬が思い出したのが小松崎茂画伯のエピソードである。 小松崎画伯は、戦前からリアルなメカを描くことで知られ、戦後は、SF小説の挿絵や絵物語、プラモデルの箱絵を描いたことで有名な方である。
 1969年にアポロ11号が月面に着陸するまで、人類は月面の実際の様子を知らなかったのであるが、小松崎画伯は月世界探検をテーマにしたSF小説の挿絵を描いた際、山をなだらかな稜線で描いたのであった。
 これを見たある天文学者が、「月には空気も水もないので、地球のような浸食作用は起きない。だから、月の山はもっとごつごつとした険しい形のはずだ。(これだからシロートは……)」といった批判をしたのである。

 ところが、実際にアポロ11号が撮影した画像はいずれもなだらかな地形であり、天文学者の予想は見事に外れたのである。
 小松崎画伯は、月には空気も水もないが、昼と夜との温度変化が激しいので、風化作用が進むはず、と考えて、なだらかな地形にしたのであった。
 ちなみに、小松崎画伯は戦前に高等小学校(現在の中学1~2年)を卒業後に画家の元に弟子入りしたため、学歴は中卒ということになる。大卒の天文学者が中卒の画家の思考力に敗れたと言っても良い。

 どんなに学力があっても、洞察力がなければ活かせない、といえるし、観察力と知恵を巡らせれば、本質にたどり着ける、ということができるかもしれない。

 

月世界の都市建設(小松崎茂)1958

 

引用
昭和ちびっこ未来画報 初見健一 青玄社 ISBN978-4-86152-315-1

源義経はジンギスカンになれるか?

 平安末期、平家を滅ぼす大功を建てながら兄に疎まれ、衣川で討ち死にしたと言われている源義経であるが、実は死んでおらず、その後、大陸に渡ってジンギスカンチンギス・ハーン)になった、という説がある。
 もちろん、正当な歴史としては認められていないが、このロマンあふれる説を人材論の観点から考察してみたい。

 1.義経ジンギスカン

 源義経が衣川で戦死せずに、大陸に渡ってジンギスカンになり、モンゴル帝国を打ち建てたという説の根拠として、以下のことが指摘されている。

 ・ 鎌倉幕府の正史「吾妻鑑」には、義経の最後について矛盾した記述がある。
         (持仏堂で自殺/民部少輔の館で誅殺)
 ・ 義経の首が鎌倉に送られ首実検が行われたが、焼け焦げたうえに腐敗していた
           ため、本人かどうかの確証が取れない。(影武者の首説)
 ・ 信楽寺跡(宮城県)の碑文に義経の影武者・杉目太郎行信が身代わりになった
           と彫られている。
 ・ 源義経の死亡日は公式記録では、閏6月30日であるが、雲際寺(平泉)にある
           源義経の位牌には死亡日が閏6月28日となっている。
 ・ 「亀井文書」の存在。これは義経の家臣・亀井六郎重清が油田村平泉)の農民
           宛てに書いた糧米の借用書であるが、日付は衣川の戦いがあった文治5年閏 4
           月30日以前の文治4年4月18日なっており、衣川の戦いの1年前に既にいなかっ
           たことが考えられる。
 ・ 平泉に到達するまでの義経主従の逃亡ルートを調べると、天台宗系の寺社が関
           係しており、天台宗系の修験道ネットワークを利用していたと考えられる。
 ・ 東北各地の義経主従が立ち寄ったという伝承が複数存在している。
 ・ 北海道アイヌの間にある「ホンカイ様」の伝承。
   「ホンカイサマはアイヌの祖先たちに弓矢の作り方と使い方、さらに手工農作
             のことまで教えた。やがてホンカイサマは蝦夷地から樺太へ攻め入り、アイ
             ヌに害をなすその土地の酋長を殺し、そこから海を渡ってクルムセの国に入
             った。その際に、一族の智者、勇者、若者を動員し、金銀財宝を持って出陣
             してしまい、戻ってこなかった」

    この伝承にあるホンカイサマとは、ホンカイ様=ホウガン様=判官様=九郎判
            官義経であるという。
 ・ ウラジオストックから西北100キロにあるウスリースクにあった古碑には笹竜
          胆の紋章が刻まれていた。シベリア出兵(1918~1922年)で当地に派遣された
           日本軍兵士が目撃したとの話もある。
 ・ ジンギスカンの前半生がはっきりしないこと。
 ・ 源義経の生没年は、1159~1189(?)年、ジンギスカンチンギス・ハーン
           の生没年は1162(?)~1227(?)年で、両者の生きていた時代が重なる。

などである。

 実は、蜀犬が大学生の時、図書館にあった高木彬光先生の「成吉思汗の秘密」という推理小説(新書版)を読んでこの説を知り、そのロマンの壮大さ、さまざまな状況証拠から、正しいと信じてしまった。
 また、当時の教養課程の英語テキストが、明治期に義経ジンギスカン説を発表した小谷部全一郎の半生を描いた作品だったことも影響しているかもしれない。(若き日の小谷部が北海道でアイヌの人たちと交流していて、「ホンカイ様」の伝承を聞く話も記載されていた)

 もちろん、この説は当然のことながら、荒唐無稽な妄説として正当な歴史学者から否定されている。しかし、それは、例えばジンギスカン墓所から源義経と関係のある物証が発見されていない(墓所自体が未発見)、あるいは、源義経ジンギスカンであるという書物が見つかっていない、といったことである。
(これを記した文献は江戸時代に作られた偽書として扱われている)

 もっとも、たったひとつの遺跡や遺物が発見されただけで、それまでの常識がコロリと変わるのが歴史の世界である。その意味では、従来の否定説は単に明確な証拠がないというだけに過ぎず、根拠のある否定論とは言い難いのではないだろうか。


2.「ジンギスカン=成吉思汗」暗号説

  源義経ジンギスカン説の傍証として、成吉思汗の暗号説とでも言うべきものがある。実は、高木先生の「成吉思汗の秘密」の初版では、天城山心中事件がラストとなっていたのである。

  この事件は、1957年12月10日に学習院大学の男子学生(20歳)と同大学の女学生が天城山中で拳銃自殺した事件である。男子学生は東北出身、女学生はなんと、清王朝の血を引く愛新覚羅慧生(19歳)であった。
 実は、義経北行伝説の中に、義経が平泉に落ち延びる途中で一夜を共にした女性が生んだ姫が、許される恋から東北の武士と心中したという伝説があった。
 清王朝はもともと漢民族ではなく北方の騎馬民族が建てた王朝であり、元王朝の血を引くとも言えるわけで、ある意味、この心中伝説と重なっているともいえる。

 高木先生は、子孫が先祖と同じ運命とたどるという「輪廻転生説」を元にして、過去と現代の心中事件を対比させ、彼らの先祖の運命が繰り返されたことで、真実なのではないか、という終わり方にしたのである。

 ところが、その後に、夏木静子という一読者が高木先生の「成吉思汗の秘密」を読んで感銘を受け、いろいろ考察を巡らせるうちにある結論に至り、それを高木先生に伝えてきたのである。

 高木先生は後に、夏木静子氏が主人公・神津恭介に自分の発見を語るという形でラストを大幅に変更した。(蜀犬が学生時代に読んだ新書版にもしっかり掲載されている)。

 夏木氏によれば、歴代の元王朝の皇帝は、フビライ(忽必烈)などのように、『汗』の文字は通常使われいていなかった。
 ところが、なぜか成吉思汗だけが『汗』を付けて表記されており、夏木氏は、これには何か理由がある、と考えたのである。
 その傍証として出されていたのが、『黄絹幼婦外孫齏臼』という碑文である。

 昔、魏の曹操が軍団を率いて、溺死した義父の遺体を捜索していて悲しみのあまり命を絶った嫁の行為を称賛する石碑の前を通った。その石碑には、その後、後漢の蔡邕《さいよう》の言葉が彫り付けられていたが、誰も意味が判らなかった。それが先に上げた、『黄絹幼婦外孫齏臼』である。

 曹操は馬に乗って意味を解くまで30里かかったことから、「有知無知三十里」(=知恵のある者とない者との差がはなはだしいことの例え)の故事となったと言われている。

 この『黄絹幼婦外孫齏臼(こうけんようふがいそんせいきゅう)』の意味であるが、

 黄絹=黄色の絹=色の付いた糸=絶
 幼婦=幼い婦人=少女=妙
 外孫=自分の娘が生んだ子供=自分の娘(=女)の子供=女子=好
 齏臼=辛子をすり潰す石臼=辛子を受ける=辤

というように、2文字の漢字が漢字の偏《へん》と旁《つくり》を現わすという暗号だったのである。

 この暗号を解くと、黄絹幼婦外孫齏臼=絶妙好辤・・・「この碑文は味わいがある」、の意となる。つまり、後漢の蔡邕《さいよう》は、石碑の碑文に感動したことを、そのような暗号文で石碑の側面に刻んだということである。

 また、夏木氏は、平安時代の歌物語である「伊勢物語」にある、かきつばたの歌の話を傍証として挙げている。
 歌物語「伊勢物語」では、都落ちして東国にやって来た貴族がかきつばたの花を見ていると、周囲の人がかきつばたで旅の心が読めるか?と問いかけた。
 すると、その貴族は、

 唐衣 着つつ慣れにし 妻しあれば はるばる来ぬる(=着ぬる)旅をしぞ思う

 唐衣(中国から輸入した貴族の古着)が何度も着ているうちになれるように、長年慣れ親しんできた妻が(都に残って)いるので、はるばるやって来た旅を(しみじみとわびしく)思うことだ、の意。


 この短歌の最初の部分にもかきつはた=かきつばたの文字が入っている。

からころも 
きつつなれにし 
つましあれば 
はるばるきぬる
たびをしぞおもう

 以上の例から、夏木静子氏は、表意文字文化圏では文字自身に特別の意味を込める傾向があるとし、ジンギスカン=成吉思汗という名前にも特別の意味があるのではないかと、推理したのである。

 まず、着目したのが『汗』である。元王朝では皇帝のような最高権力者を意味する言葉あるが、そもそも『汗(ハン)』の位はジンギスカンによって創られたのであるから、当然、ジンギスカンの意志が入っているはずと主張する。

すなわち、

汗=サンズイ+干=水+干=水干

となる。

 水干とは平安時代の庶民の男子の装束であるが、一方で、白拍子と呼ばれる歌舞を演じる女性の衣装でもあった。ここで、源義経に関係のある白拍子と言えば、静御前の名前が浮かぶ。
 そこで、成吉思汗を「吉成りて汗を思う」と読み下し、「吉野山での誓いが成って静御前を思う」、という意味に解釈する。吉野山とは、兄・頼朝に追われた義経が、静御前と別れた場所である。
 平泉の館を落ち延びて大陸に渡った源義経が、騎馬民族のリーダーとなって大帝国を打ち立てた。義経は成吉思汗と名乗ることで、自分が大陸で生きてることを静御前に伝えたかったのではないか、というのである。

 また、モンゴルでは、 8月15日 を 成吉思汗の命日 として、「オボー祭」という祭りを催し、その霊をなぐさめている。 義経ゆかりの鞍馬寺でも、 かつては8月15日 に「義経忌」という法要が行われていたと言う。これは、成吉思汗の名前の意味を解いた鞍馬寺の僧侶たちが、義経が生きて成吉思汗になったことを知って始めたのではないか、という傍証だという。

 ロマンあふれる大胆な解釈である。

 蜀犬も学生時代には、この壮大な解釈には一時期胸を躍らせたものであるが、その後、社会人となり、ビジネス戦略や人材論について学んでいくうち、この説に疑問を持つようになった。

 源義経って、大帝国を築けるような英雄だったっけ?

ということである。


 3.人材論から見た義経

「名選手、名監督にあらず」という言葉がある。名選手の条件は個人のスキルであるが、監督には多くの選手をコントロールするマネジメント能力が求められ、それは、個人のスキルとはまったく別の問題だということである。

 実際、ビジネスの世界でも優れた才能で出世したまでは良いが、出世した先でマネジメント能力がなかったために、組織全体で優れた業績を残せなかったといった例は枚挙にいとまがない。

「卒に将たるは易く、将に将たるは難し」という言葉がある。
 秦の始皇帝亡き後、漢帝国を打ち建てた初代皇帝・劉邦と大功のあった淮陰侯・韓信との酒宴で韓信が語ったとされる言葉である。
 劉邦が、韓信に「自分はどのくらいの兵力を扱えるだろうか?」と尋ねると、韓信は「陛下なら10万でしょう」と答えた。
 すると、劉邦は、「ならば、そちはどの程度か?」と尋ねると、韓信は、「私なら多ければ多い程使いこなせます」と答えた。
 それを聞いた劉邦は、「儂より多数の兵を使いこなせるのに、なぜ儂に仕えておるのか?」と聞いた。
 韓信は、「私は兵に将たることはできますが、陛下は将に将たることができます。」と答えた、という。

 要するに、将軍が兵士を指揮するとこと、その将軍たちを統率指揮する将帥の能力は全く別ということである。

 さらに、項羽との内戦が終わった後、劉邦が建国の功臣たちと酒宴を持った際、自分が項羽に勝てた理由について、「優れた賢臣の意見を良く聞いて、彼らを使いこなしたこと」を挙げている。

 実際、劉邦はライバル項羽との内戦平定後、最大の功臣として、蕭何を挙げている。蕭何は最前線で項羽軍と戦ったことはないが、後方で、劉邦の代わって領地を治め、劉邦の要求に応じて、食糧や補充兵を送り続けた。もし、蕭何がいなければ、劉邦軍は兵站や兵力が枯渇して早期に項羽軍に敗れていたはずである。

 一方、劉邦のライバルである項羽には、唯一の謀臣・范増がいたが、劉邦陣営の策略によって、項羽の元を去っていた。さらに、項羽兵站や後方攪乱など目立たないが重要な任務を行う者に評価は低かったとも言われている。

 多くの日本人が誤解しているようだが、戦争における勝利とは個々の戦闘における勝利の合算値ではない。それらは単に戦術的な勝利に過ぎない。
 そして、戦争を論じる時に言われるのが、戦術上の勝利は戦略上の勝利で覆せる、ということである。

 例えば、太平洋戦争前期、日本海軍はMO作戦を実施した。これは、ニューギニア南東部のポートモレスビーを攻略して、基地を建設し、珊瑚海の制海権を確保することで、アメリカとオーストラリアを結ぶ海上補給ルートを遮断するのが狙いであった。

 そして、1942年5月7日から8日にかけて、アメリカ・オーストラリア連合軍の機動部隊と、日本の機動部隊との間で、世界初の空母戦が繰り広げられた。(珊瑚海海戦)
 2日にわたる戦闘の結果、双方が損害を被って撤退し、海戦は終わった。
   ・ 日本側損害:軽空母・祥鳳が沈没、大型空母・翔鶴が大破、
   ・ アメリカ側損害:大型空母レキシントンが沈没、ヨークタウンが中破

 単純に損害(=戦果)でいえば、日米痛み分けと言えなくもないが、ポートモレスビーを攻略して、合衆国とオーストラリアを分断するという作戦目的を達成できなかった。この結果、合衆国からオーストラリアへ戦略物資が供給され、その後、日本軍の重要戦略ポイントであったラバウル攻略作戦が実施されることとなった。その後の経緯を考えるならば、戦略的には日本の敗北といえる。

 従来、連戦連勝の英雄と評価されてきた源義経であるが、将帥という観点、あるいは、戦略と戦術という観点から再評価することは必要であろう。


4.鎌倉革命政権

 いわゆる源平時代というのは、実は平安時代末期であり、当時の経済システムで重要な位置を占めていたのが、『荘園』であった。これは貴族や寺社などの支配層に農地(田圃)の所有を認めるものである。
 一方、東国など京都の権力の及びにくい土地では、地方の豪族が自分たちで荒れ地を開墾して農地を持つようになったのだが、もちろん、これは非合法である。
 そこで、豪族たちは、中央の貴族や寺社に「寄進」と言う形で荘園の一画に加えてもらって合法化していたのである。
 当然、その代償として、荘園の所有者である京都の貴族たちに、農作物を納めなければならない。
 ところが、中央の権力が弱まってくると、地方の治安が悪化してくる。そこで、地方豪族たちは独自に武装するようになった。これがいわゆる武士の始まりである。つまり、東国の武士とは、武装した開拓農民だったのである。

 当時の武士たちの心情を現わす言葉として、「一所懸命」がある。今では「一生懸命」に置き換わったが、もともと「一生」ではなく「一所」である。つまり、武士は自分の土地(を守るため)に命をかける、という意味である。

 この初期の武士たちにとって、京都の貴族たちは次第に疎ましい存在となっていく。自分たちが額に汗して荒れ地を耕して作った農地の収穫物をひたすら奪うだけで、何もしてくれないからである。土地争い、水争い、盗賊団からの自衛といったことは全て自分たちで行わなければならない。その思いは、やがて、「自分たちにも土地(の所有権)をよこせ」という要求となっていく。

 この東国武士たちの思いをくみ取ったのが、源頼朝であり、彼は「武士の、武士による、武士のための政治」を 目指していた。いわば、京都の中央政府に対する革命戦争を起こそうとしたのである。

 当時の源頼朝は、源平の政争に敗れて追放された人質同然の身であったが、東国の田舎武士たちにとっては、中央との強いパイプを持った存在に見えた。ここから、源頼朝を神輿にして、京都政府に対して土地の所有を認めさせるという東国武士たちのビジョンが生まれてきたのである。そして、頼朝自身、東国の武士たちの中で暮らしていくうちに、彼らの心情をくみ取って、武家政権の構想を目指すようになったのである。

では、具体的にどのようにして、このビジョンを達成するか?

 平清盛は自分の娘を天皇の妃にし、生まれた孫(男の子)を次の天皇(=安徳天皇)にした。その後、木曽義仲との闘争に敗れて平家は都落ちしたが、その際、安徳天皇三種の神器を持って行ってしまったのである。
 そこで、後白河上皇は尊成親王後鳥羽天皇として強引に即位させた結果、同時期に2人の天皇が並立するという異常事態となってしまった。
 後鳥羽天皇としては、安徳天皇から正式に譲位されたうえで三種の神器を譲り受けなければ、その正統性に疑問符が付いてしまう。

 源頼朝が目を付けたのはまさにこの点であった。平家一門から安徳天皇三種の神器を取り戻せば、後白河上皇との有力な交渉カードとなる。

 そこで頼朝は、義経安徳天皇三種の神器奪還を命じたのである。もちろん、平家側が素直に渡すわけはなく、当然、実力行使を伴うことになる。
 カール・フォン・クラウゼヴィッツは、「戦争とは政治の延長であって、政策を達成する手段である」と述べたが、平家との戦闘に勝利することによって、安徳天皇三種の神器を奪還することが、源氏の戦略目標となったのである。

 なお、頼朝自身、この戦略目標さえ達成できれば、平家一門の打倒(滅亡)は不要と考えていたようである。


 5.「安徳天皇三種の神器」奪還作戦

 鎌倉革命政権のリーダー・源頼朝から「安徳天皇三種の神器」奪還作戦の総司令官に任命された源義経は、戦略目標達成に対してどのように動いたのであろうか。


 5‐1.一の谷の戦い

   源氏兵力:数万騎
   平家兵力:5~7万

① 1184年2月5日:まず、義経は前哨戦として三草山で平家軍を夜襲。不意をつかれ
  た平家軍は大混乱に陥る。

② 2月6日:後白河法皇の使者が平家の元にやってきて、「源氏と和平交渉をしたい」
      と持ちかけたため、平家は戦の準備を止めた。

③ 2月7日早朝:義経は少数精鋭の部隊を率いて、鵯越という急な崖の上に到着。そ
      して、そこから平家軍の背後へと奇襲攻撃した。

④ 同じ頃、源範頼軍が正面から攻撃:範頼の軍が「生田の森」方面から攻め、正面
       から平家軍を圧迫。

⑤ 平家の敗走:奇襲を受けた平家軍は大混乱に陥り、海からの脱出を試みた。し
       かし、兵が殺到しすぎて船に乗れない者が多く、大勢の兵が海で溺れた、と言わ
       れている。

【一ノ谷合戦】

 

【蜀犬考察】
 孫子の兵法によれば、『戦いは正(せい)をもって合し奇(き)をもって勝つ』(勢篇第5)という。大部隊による正攻法によって敵を受け止め、まずは負けない体制を作った上で、奇策を行うことで勝ちを得る、ということである。その意味では、一之谷の戦いにおいて、源範頼軍の大軍で平家軍を圧倒し、源義経部隊による奇襲で平家軍を壊乱に追い込んだのは、ある意味、この理想的な例と言えるかもしれない。
 しかし、戦いの戦略目標である『安徳天皇の確保と三種の神器奪還』は達成できたのであろうか?
 もちろん、戦略目標はあくまでも最終目標であり、その過程で敵戦力を削減する、と言う意味では無意味ではなかった、と言えるかもしれない。
 とはいえ、最終的に平家軍は船で海上へ脱出している。もし、義経部隊が山側から鵯越の逆落としで攻撃するのではなく、海岸または海上から奇襲すれば、平家軍を完全包囲することができたのではないだろうか。何と言っても崖を下ることはできても、登って逃げることは容易ではない。
 その時、源氏軍に船がなかった、というのは言い訳に過ぎない。戦略目標達成のためには、事前に海上兵力を用意する、あるいは奇襲部隊が平家軍の軍船を奪取破壊する等の方策を考えるのが司令官の役目だからである。

 

 5‐2.屋島の戦い

 一ノ谷の戦いの戦術的勝利により、源義経は、後白河上皇から左衛門少尉や検非違使の職を授けられ、さらに、四国の地頭に任命した。
 (源義経は、鎌倉革命政権のリーダー・源頼朝から司令官に任じられた身分にも関わらずである。)

 また、ここで源氏軍は二手に分けられ、範頼軍は九州へ、義経軍は引き続き「安徳天皇三種の神器奪還作戦」を継続することとなった。

 1185年2月、摂津国の渡辺党、熊野別当湛増伊予国河野通信の水軍を味方につけた義経は、摂津国渡辺津に兵を集めた。

① 総司令官・義経と軍監・梶原景時との間で「逆櫓の争い」が起きる。

   梶原景時:船の機動性を増すため、後退できるように全部に櫓を付けるべき。
        良将は進退を見極め、身の安全を考えながら敵を滅ぼす者。
        前後もわきまえずに突進するのは猪武者

   源義経:はじめから逃げることを考えていては良い結果は得られない。
       義経の船には逆櫓は不要
       戦さはただ攻めに攻めて、勝てば良い

② 2月18日、義経は暴風の中を五艘の船(150騎)で摂津国を出航、通常では3日か
  かるところを翌朝には阿波国に上陸。

③  2月19日、地元の豪族から平家の守りが手薄であるとの情報を得て、義経は少数
      の兵で攻撃を決断。民家に火を放つことで平家に大軍が来たと錯覚させ、奇襲を
      成功させた。平家はこの奇襲に驚き、陣地を捨てて逃げ出した。

④ その後、平家軍は再上陸を試みるが、義経が80騎を率いて撃退した。

⑤   2月22日、梶原景時が率いる本隊144余艘が到着、平家軍は山口県にある彦島
       撤退した。この時点で、源範頼軍団は九州を制覇しており、平家軍は彦島(下関
       市付近)に孤立状態となった。なお、『平家物語』によれば、義経梶原景時
     「六日の菖蒲」と嘲笑したとされている。

 

【蜀犬考察】
 源義経の決断で勝利を得たと言われる屋島の戦いであるが、最優先の戦略目標「安徳天皇三種の神器の奪還」は、相変わらず果たせていない。その意味で、戦略上の勝利とは言い難いだろう。
 しかも、最終的に平家軍船団の海上離脱を許しており、一之谷の合戦で行った失敗をまたしても繰り返したことになる。
 梶原景時との逆櫓の論争で見せた総司令官である義経の決断は、そもそも作戦目的自体を理解していないことを明確である。安徳天皇三種の神器を載せて船で逃げられた場合、さまざまなケースが考えられ、ある程度の機動性の確保は重要ではないだろうか?
 また、上陸後、少数の兵で上陸に成功したのなら、源氏軍本隊の到着を待ち、本隊が平家軍の船団を海上から封鎖した隙に小部隊で安徳天皇三種の神器を奪還する、といった作戦も取れたはずである。
 最終的に総司令官義経は奪還作戦に失敗しており、少なくとも軍団の有機的な運用を欠いたという意味で、総司令官の責任は免れないことになる。

屋島の戦い

 5‐3.壇ノ浦の戦い

 屋島の戦いで敗北したのち、平家は根拠地を彦島下関市近く)に移すことで、攻める源氏水軍VS守る平家水軍の争いが勃発することになる。

① 総司令官・源義経と軍監・梶原景時との間で「先陣の争い」が起きる。
    梶原景時:自らが先陣を勤めることを提案。
         「大将が先陣なぞ聞いた事がない。将の器ではない。」
         と義経を批判

    源義経:総司令官自らが先陣に立つことを希望。
        景時の言葉に激怒。

② 1185年3月24日:壇ノ浦の海上で源氏と平家が激突。(源氏:830艘vs平家:500艘)

③ 同日午前:水軍に慣れている平家の軍が力を見せて源氏を圧倒。壇ノ浦近くの潮
  の流れに乗って源氏水軍を徐々に押し返していく。
  この時、義経は、平家の船の動きを止めるため、「船の漕ぎ手を射殺す」という
  作戦を取った言われてる。(当時は非戦闘員を殺すことは卑怯なこととされていた)

④ 同日正午頃:次第に平家に有利だった潮の流れの向きが変わり、最終的には潮の
  流れが逆転。源氏が有利な方向に変わる。 源氏が一気に反撃開始。

⑤ 同日午後:平家の兵たちは次々と海に飛び込み始め、安徳天皇も母である建礼門
  院と祖母の二位尼とともに、海に身を投げた。三種の神器も平家一門の女官とと
  もに海に沈んだ。この時、義経は、敵の猛将・平教経に追い詰められたとき、次
  々と船を飛び移りながら逃げたと伝えられている。(義経の八艘飛び)

⑥ 源義経は平家の総大将である平宗盛を偶然捕縛し、捕虜にした。
  一方、入水した建礼門院は助け上げられ、三種の神器のうち、『八咫鏡』と『八
  尺瓊勾玉』は回収されたものの、『天叢雲剣』は行方不明となった。

 

【蜀犬考察】
 船の漕ぎ手や舵取りを矢で射殺すことは、当時の倫理上問題だったかもしれないが、船を行動不能にして、「安徳天皇三種の神器」奪還作戦においては、有効な戦術と言えるだろう。ただし、最後を悟った平家側は、自らの手で安徳天皇三種の神器自裁してしまったたことで、最悪の結果となった。
 入水した建礼門院が助けられたのなら、やり方次第で安徳天皇も救えたのではないだろうか?
 それができなかったのは、総司令官たる義経が最前線に出たことで、十分な指揮統率ができなかったと言える。いわゆる八艘飛びのエピソードは、義経が総司令官の職務を放棄して自ら最前線に出たことを物語っており、本来なら指揮の失敗として語られるべきものである。
 最終的に総司令官のこの失態により、有力な交渉材料を得て土地の所有権を京都政府に認めさせるという鎌倉革命政権の構想は大きく揺らいでしまったことになる。

 

 6.義経その後

 日本一の大天狗と呼ばれた後白河上皇に操られたことで義経の運命は暗転していく。後白河上皇が過去にどのような事をしていたかを見れば、また、兄・頼朝が造ろうとしていた鎌倉革命政権を理解していれば、義経の行動はおのずと決まることになるのだが……。

 義経は捕虜にした平家のリーダー・平宗盛を連れて鎌倉に凱旋しようとしたが、相模国腰越で止められた。
 元暦 2年 5月24日 (1185年 6月23日)、義経は滞在していた腰越の満福寺で、兄への取り成しを依頼する手紙(いわゆる、腰越状)を書き、頼朝の側近・大江広元宛に送った。しかし、返事はなかったため、義経一行は止むを得ず京都に戻ることになる。

 それに先立つ1185年(元暦2年)4月15日、頼朝は許可なく朝廷の官職についた者に対し、墨俣川以東へ入ることを禁じ、これを破った者は本領を没収し斬罪に処するという命令書を発出していた。
 なお、この日付は義経が京都政府から官職を得た後であるが、鎌倉革命政権のリーダーである源頼朝からすれば、義経は単なる配下の一将に過ぎず、リーダーの頭を素通りして官職を得るなどあってはならないことであった。この道理を知っていれば、義経は自主的に官位返上をするのが筋である。
 ところが、義経が出した腰越状では、「任官は一族にとって名誉なこと」と書いており、この組織論をまったく理解していなかったと思われる。
 現在でも政権与党が、大臣就任をエサにして、対立する派閥や野党から直接ヘッドハンティングする「一本釣り」が行われている。その時にヘッドハンティングされた本人は良いが、その後は元の所属組織との関係がこじれることも多い。

 鎌倉革命政権は、義経の所領を没収するなどの措置を行ったため、義経は、源氏のトップである兄・頼朝との対立が決定的となった。

 最終的に、後白河上皇から頼朝討伐の院宣を出してもらい、武士たちに頼朝討伐を呼びかけたが、参集する武士はひとりもいなかった。
 これはある意味当然である。「安徳天皇三種の神器」奪還作戦で、総司令官たる義経は自ら最前線に出て戦うことが多かったが、これは裏を返せば、恩賞を得ようとして参加した武士たちのチャンスを横取りする行為だからである。
 また、「武士に土地をよこせ」をスローガンにしている鎌倉革命政権と、既得権益を守ろうとする京都政府と、どちらが武士たちの心情に響くか、といえば、言わずもがな、だからである。

 その後、頼朝は義経追討を名目に京都に大軍を送り込み、後白河上皇に「頼朝追討」の院宣を取り下げさせ、新たに「義経追放」の院宣を出させた。
 この結果、義経は日本国内を逃亡するしかなくなり、最終的に逃亡先の平泉で討ち取られたのである。


 7.源義経ジンギスカンになれるか?

以上の考察から、源義経を評価するならば、

・ 優れた戦術眼を持っており、大軍の弱点を突いて勝利を得る短期決戦型の猛将。
・ 戦略の意義を全く理解しておらず、万単位の大軍を指揮する能力はない。
・ 「土地を寄越せ」という当時の武士たちの要望を全く理解しておらず、リーダーの
  資質に欠ける。
・ 後白河上皇は過去にも権謀術数を駆使して武士を潰した前歴があり、安易な接近
  は危険という政治感覚も欠如している

といったことが挙げられる。

 韓信流に言うならば、源義経は「兵に将たる」人物であっても、「将に将」たる人物ではない、と言わざるを得ない。

「士、3日会わざれば刮目〈かつもく〉してこれを見よ(=努力する人間は、3日後に会った時にはびっくりするほど優れた人間に変わっている)という言葉があるので、義経も過去の失敗を反省して、政戦略に通じた優将になる可能性もなくはない。
 しかし、歴史を俯瞰してみれば、そのような人物の例が稀有な事が多いのではないだろうか。

 義経が自らの失敗を反省して、短期間で戦略思考や政治センスを身に付けた、というのは小説としては面白いが、現実問題は無理だろう。

 仮に、義経が衣川の戦いで討ち死にせず、大陸に渡ったとして、「数百人の部下を率いる馬賊団となって大陸で大暴れした」という可能性はあっても、「有能な人材を登用し、彼らの力を存分に発揮させて大帝国を打ち建てる」、などということはまずあり得ないと言って良い。

以上のことから、義経ジンギスカン説は明確に否定すべきであろう。

 

◆ 参考資料

引用地図:WTFM風林火山教科文組織

引用地図:屋島の戦い 出典:Wikipedia