7月7日といえば七夕であるが、昭和20(1945)年7月07日、日本初のロケット戦闘機「秋水」が初飛行した。 宇宙繋がりということで、今回はこのロケット戦闘機「秋水」をテーマに書いてみたい。
第2次大戦末期、アメリカは原子爆弾、イギリスは後のコンピュータに繋がる暗号解読機、そして、ドイツでは、巡航ミサイルの元祖である有翼ミサイルV-1,弾道ミサイルV-2といった秘密兵器開発が行われていた。
特に、科学技術で一歩抜きんでいたドイツでは、世界初のジェット戦闘機メッサーシュミットMe262、同じく世界初のロケット戦闘機メッサーシュミットME163Bコメートを実戦に投入していたのである。
この最新技術は、当時ドイツと軍事同盟を結んでいた日本にも伝えられ、戦局挽回のため日本でも製造することになった。
ドイツ駐在武官が潜水艦で日本まで開発資料を送り届けることになったのだが、当時、スエズ運河は連合国のイギリスに抑えられていたため、大西洋を南下し、アフリカ南端の喜望峰を回るという大航海時代の帆船を思わせる航海であった。
日本まで確実に届けるために2隻の潜水艦『伊29』と『呂501』が準備され、同一の資料を載せて出港したのだが、『呂501』は大西洋上で米駆逐艦の餌食となって全員死亡した。『伊29』は日本占領下のシンガポールまで無事に到着し、最低限の資料を鞄に詰め込んでひとりの技術少佐が飛行機で日本本土へ運ぶことになった。
幸い、彼は無事に日本に到着することができたが、シンガポールを出航した『伊29』は日本まであと少しということろで、米潜水艦に見つかり、生存者1名を残して全員死亡、貴重な資料も海の藻屑となった。
結局、日本に着いたのは、寸法の入っていない機体の三面図、同じく寸法の入っていない翼断面図、ロケットエンジンの燃焼試験報告書(前半部分に作動原理と燃料の組成を記載)、機体の取り扱い説明書程度であった。
余談だが、同時に届けられたジェットエンジンの断面図はキャビネ版サイズのみで、詳細不明であった。ジェットエンジンのタービンの胆ともいえるクリスマスツリー構造は解読不応であっため、日本側はタービン製造にブレードを溶接した。
しかし、これくらいで諦める日本人ではない。このわずかな資料を基にロケット戦闘機を最優先で開発することが決まったのである。ここから未知の技術にチャレンジするのだから、はっきり言って無理難題である。
当時、サイパン島失陥によってアメリカの大型戦略爆撃機B29の脅威が目前に迫っていたが、日本の戦闘機で成層圏に到達可能な戦闘機は開発段階であり、間に合わない。ちなみに、零戦がB29の飛行高度1万メートルまで上昇するには約40分かかるが、ロケット戦闘機なら3分30秒で到達できる。ロケット戦闘機開発はまさに焦眉の急であった。
このロケット戦闘機のエンジンはドイツのヘルムート・ヴァルターが開発したもので、酸化剤として高濃度の過酸化水素、燃料にアルコールを使うのが特徴である。過酸化水素は水を電気分解して製造するのであるが、当時の日本は水力発電が主であった。
一方、アルコールは穀物を発酵蒸留して製造される。つまり、日本国内の資源だけで製造できるのである。
当時、アメリカの潜水艦にシーレーンをズタズタにされ、石油不足の日本にとっては、国内で自給可能なことはまさに理想的であった。
昭和19(1944)年7月、普段から犬猿の仲といわれる陸海軍が共同開発する体制を作ったことからもその期待の大きさがうかがい知れる、陸軍呼称『キー200』、海軍呼称『J8M1』、。陸海軍統一名称『秋水』の開発スタートである。
機体は海軍が、ロケットエンジンは陸軍が開発することになったが、海軍は機体の開発を三菱重工に丸投げであった。当初、三菱重工では資料の少なさから辞退したのだが、海軍側が全面協力を表明したことで泣く泣く引き受けることになった。
一方、ロケットエンジン担当の陸軍は三菱重工の航空エンジン部門に開発を丸投げした。何のことはない、ロケット戦闘機は実質、三菱重工一社の開発であった。
さらに、試作計画がスタートすると同時に、海軍では訓練部隊を結成した。横須賀航空隊百里原派遣隊―通称、秋水隊である。まだ、秋水が初飛行もしていない昭和20年2月5日には、正式な戦闘部隊として第312航空隊(司令:柴田武雄大佐)に格上げされている。
また、実戦部隊が稼働すれば、高濃度過酸化水素も大量に必要となるため国内大量生産の準備を始めていた。
かくして開発をめぐるさまざまな苦労があり、ロケットエンジン試験では爆発事故で死者も出たが、運命の昭和20(1945)年7月7日を迎えるのである。
当日、エンジン調整に手間取り、準備が遅れていたが、16時55分に飛行テストが開始された。パイロットの犬塚豊彦大尉は、秋水実戦部隊の飛行隊長であり、秋水のグライダータイプで唯一飛行した人物であった。ロケットエンジンは快調に作動し、順調に離陸後、急上昇を開始したが、高度500メートル付近で突然エンジンが停止した。非常時には東京湾に着水するようにとの指示が事前にあったものの、犬塚大尉は、唯一の試作機を失うことによる開発の遅れを懸念したのか、そのまま惰性で高度を取った後、水平飛行に移り、滑走路への着陸を試みた。
水平飛行後に残燃料が空中投棄され始めたがすぐに中止されている。おそらく、犬塚大尉は腐食性の高い燃料が地上に影響を与えることを懸念したものと思われている。
テスト飛行の舞台となった追浜飛行場は元々狭く、しかも、犬塚大尉は未経験というハンデがあった。さらに燃料投棄が不十分だったためか、あるいは、もともと軽量のグライダータイプと微妙に操縦特性が違ったためか、旋回時のタイミングが1~2秒遅れた結果、滑空中の秋水の主翼端が滑走路脇の監視塔と接触し、半ば失速する形で滑走路に叩きつけられた。幸い、爆発はしなかったが、犬塚大尉は頭蓋底骨折により昏睡状態となり、翌早朝に殉職した。
初飛行テストでは、飛行場が狭いことを考慮して、燃料タンクへ通常の半分しか燃料を給油していなかったのだが、これが原因で、45度の急角度で上昇中、燃料がタンク後下部に押し付けられ、給油口から空気を吸い込んだため停止したのであった。
新興宗教に傾倒していた部隊の司令が、教祖様お告げにより燃料を半分に減らしたとも言われている。
もし、燃料を満載にして高度1万メートルまで上昇していれば、高度に余裕があるため、滑空時間を稼ぐこともでき、事故は防げたのではないだろうか?
秋水の開発はその後も続いたが、終戦まで残り40日程度ではできることも限られており、結局秋水開発は未完のまま終わったのである。
蜀犬が初めてロケット戦闘機のことを知ったのは、小学校高学年の頃、秋本実先生の『日本の戦闘機』を読んだときである。当時は、連日宇宙開発のニュースが報道されていた時代である。そんな中、ロケット推進する戦闘機はある意味夢の航空機に思えたのである。
もっとも、その後、ロケット戦闘機『秋水』の詳細は情報を知ることとなり、その実態を知ることになるのだが・・・・。
ところで、蜀犬の父は、帝人(現・テイジン)に定年まで勤めていたのだが、蜀犬の少年時代、家に『道をひらく』というタイトルの本が置いてあった。内容は、帝人創業期から50年後までの歴史であるが、いわゆるプロジェクトX的なエピソードが満載であった。大人向けとは言え、比較的平易な文体であったため、技術開発モノが好きな蜀犬は小学時代に愛読していたのだ。
実は、この本の中にロケット戦闘機秋水に関する情報が記載されていたのである。ロケット戦闘機に必要な大量の過酸化水素を準備するため、当時の軍部は日本各地の化学メーカーに高濃度過酸化水素の製造させたのだが、その中に帝人も含まれていた。当時の帝人は化学繊維(人絹=レーヨンのこと)メーカーだったのが理由のようである。
で、この『道をひらく』のエピソードであるが・・・・。
帝人で製造された高濃度過酸化水素が輸送中に爆発事故を起こしてしまったことがあった。この事態に、さっそく、軍部から帝人の担当者に「ちょっと来い!」と呼び出しがかかった。
貴重な過酸化水素が爆発事故を起こしたので、厳しい叱責が待っているのが目に見えている。担当者は覚悟を決めて出頭した。
ところが、軍の担当官からは、「ドイツでは高濃度過酸化水素が爆発事故を起こしているのに、日本の過酸化水素が爆発しないのでドイツ並みのものができていないのでは?と心配していた。今度の爆発事故で日本でもドイツ並みの品質のものができたと判った。事故に負けずにしっかり製造して欲しい」と激励されたそうである。
少年時代、ロケット戦闘機『秋水』に興味を持っていた時期だけに、このエピソードは強く記憶されることになった。
そして、それからさらに時が経った2018年、歴史関係の雑誌、歴史群像No152号に、『呂號乙薬』(柴田一哉)という記事が掲載されていた。ロケット戦闘機『秋水』に使うため高濃度過酸化水素を日本国内で製造した時の顛末を描いたものである。その記事には主な過酸化水素の製造メーカーの一覧が載っていたが、なぜか帝人は入っていなかった。そこで、蜀犬は、懸賞はがきの通信欄にこの帝人でのエピソードを書いて送ったのである。
通信欄の投稿は次回の雑誌に掲載されるのだが、蜀犬自身気になって次号が発売されると直ちに読者のページを見たのだが・・・、残念ながら掲載されていなかった。
ところが、である。それから2,3日後、その歴史雑誌に編集部から懸賞のプレゼントが送られてきた。つまり、少なくとも、懸賞はがきに書いたエピソードが編集部の誰かに読まれたということである。
このエピソードを知っている人間は、今や日本広しといえども自分だけだと思っていたので、ちょっとだけ肩の荷が下りた気がしたものである。
参考文献
・ 道をひらく 福島克之著 1963年 帝人株式会社
・ 歴史群像No102(2010.AUG)『秋水』開発物語(柴田一哉)
・ 歴史群像No.152(2018.DEC) 呂號乙薬(柴田一哉)