自動運転とVF-1 ヴァルキリー

 人間の脳(天然知能)とAI(Artificial lntelligence=人工知能)との最大の違いは、天然知能は目の前の状況から世界を認識し、さらにその世界をシミュレートできることである。


 例えば、推理小説は全てテキストデータで描かれているが、ある犯罪事件が発生し、それに関連する多くの人物が登場するという情報を含んでいる。この時、人間の脳は、抽象的な活字の情報から、その小説の舞台となる時代、場所、親子兄弟ライバルといった人物の相関関係を理解し、ひとつの虚構世界として認識することができる。さらに、そのようにして構築された世界の中で、ある登場人物が犯人ならば矛盾が生じるかどうか、というシミュレーションを行うことができる。いわゆる犯人捜し、である。

 一方、現在の弱いAIなどと称されるディープラーニングの手法といえば、例えれば、「犯人」という単語に着目し、その前後に登場する人物の名前との相関性から犯人を当てるようなものである。
そして、推理小説の常套パターンであるが、真犯人と思っていた人物が実は無関係で、最後のドンデン返しで別の人物だったというのもよくあることである。当然ながら、ディープラーニングの手法ではこのドンデン返しには対処できない。

 つまり、人間の脳は情報から世界をイメージし、そこからシミュレートする能力がある、ということである。また、この能力は人間だけに限らない。犬に餌を与えるときにベルを鳴らすようにしておくと、ベルの音を聞いただけでよだれをたらすようになる、いわゆるパブロフの条件反射であるが、これも、脳がベルが鳴ると餌が出てくる世界を理解し、その世界の法則から状況の変化をシミュレートする能力の結果ということができる。

 一方、AIに対しては、特定の条件反射のプログラムを組み込んでおくことは可能であるが、後天的に条件反射を獲得することはない。この世界観の構築とシミュレート能力こそ知性と呼ぶべきものであると蜀犬は考える。

 さて、自動運転の開発が進んで、人間が運転操作をサポートしないレベル5の完全な自動運転ができるか、どうかといったことが話題となっている。
 AIの計算能力とセンサ技術が進歩すれば必ずできる、という派とレベル5は無理という派がいるが、蜀犬はもちろん後者である。なぜなら、人間が車を運転する時、天然知性のみが持つ世界観の認識能力とシミュレート能力が遺憾なく発揮されるが、現状のAIは、どう頑張ってもこの能力がないからである。

 例えば、風でごみ袋が前方を横切った時、人間はまず軽いゴミ袋が動いてくることから風が吹いて飛ばされたことを認識し、万一衝突しても車にダメージはないと判断してそのまま車を進める。一方、ボールが突然前方を横切った時は、子供のボール遊びの可能性をシミュレートし、同時に子供の飛び出しに備えて、急ブレーキをかける準備をする。
 これに対して、現状のAIはカメラ画像から前方を横切る物体との衝突の可能性を判断するだけである。ゴミ袋だろうとボールだろうと、とにかく急ブレーキをかけることになる。また、いかにカメラやレーダーなどのセンサ技術が進歩しても死角を検知することは不可能である。しかし、人間は死角に潜む何かを想像してシミュレートすることができる。この世界を認識しシミュレートできる能力が危機を回避し、生き延びるためには絶対に必要な能力である。

 一方、AIの一種であるディープラーニングは、所詮統計処理をしているに過ぎない。現在のAIが、いかに計算速度を上げたところで、この能力がない限り、真のAI=Artificial Intelligence=人工知能とは呼べないのである。そして、現在のソフトウェア開発はこの世界を認識するための計算手法さえ提示できていないのである。

 ところで、1982年に放映されたアニメ「超時空要塞マクロス」は、異星人との星間戦争というハ-ドSFとラブコメの融合という一種異様なテイストの作品であった。ハードSF部分で特筆すべきは、当時の有名なアートデザインスタジオの「スタジオぬえ」がデザインした宇宙船等の未来兵器群であるが、その中でも群を抜いていたのが可変戦闘機『VF-1ヴァルキリー』である。当時の米海軍主力戦闘機F-14トムキャットそっくりの外観でありながら、何の矛盾もなく人型ロボットに変形する、という斬新なアイデアは当時のメカマニアを驚かせた。

 また、1980年代は、マニアによる同人誌の制作販売のブームも起きていたが、あるメカマニアグループがこのVF-1ヴァルキリーに注目して、ムック本の「VF-1 VALKYRIE」を製作した。中身は、現用ジェット戦闘機の解説書などを参考にして、VF-1ヴァルキリーの開発コンセプト、機体構造、エンジン、武装等を、詳細に解説したものである。事情を知らない人間が読めば「VF-1ヴァルキリー」が実在している、と錯覚しているほどの出来であった。

 ところで、このムック本の中に統合戦争時のエースパイロットとして活躍し、後にテストパイロットとしてヴァルキリーの開発に参加したトム・加藤少佐のエッセイ「THE TESTING DAYS」が載せられている。もちろん、トム・加藤少佐自体が架空の人物なので、いわば、エッセイの形を借りた小説である。

 この加藤少佐のエッセイの中で特に蜀犬が着目した話は、少佐がフライトテスト中に遭遇した重大事故のエピソードである。

 加藤少佐が行っていたフライトテストというのは、機体を急降下状態から急上昇へ移行した場合、エアインテークの気流が乱れて熱核融合ジェットエンジン(地球に不時着した異星人の宇宙船の技術を解析して開発された、という設定だった)の作動が不安定にならないかを確認するというものだった。
 急降下中にVne(飛行禁止速度)を超えた少佐は、そのままテスト継続を宣言し、地上コントロールも了承した。というのも、ヴァルキリーはまだ試作機であったため、Vneは低めに設定されていたからである。実際、少佐を含めて数人のテストパイロット達がこれまで何度か水平飛行中にVneを突破したことがあったが、特に問題は報告されていなかった。 
 やがて規定の引き起こし高度に達した少佐は、急降下から機体を引き起こして急上昇に移ろうと操縦悍を引いた。しかし、機体は何の反応も示さなかった。相変わらず45度の角度で急降下を続けている。
 突如操縦不能になったことを知った少佐は、機体を減速させようとあらゆる手段を試みる。しかし、音速を突破した状態では動圧が高すぎるため安全装置が作動してエアブレーキが開かない。可変翼をマニュアル操作で全開にしようとしたが、やはり動かない。最後の手段として主脚を降ろして空気抵抗を増加させようとしたが、高速域では動圧が高すぎて主脚カバーが開かなかった。
 地上コントロールベイルアウト(緊急脱出)を指示したが、超音速状態でベイルアウトして五体満足で帰還できるかどうか保障はなかった。
 絶望的な気分になった少佐はふと思い付いた可能性に全てを賭け、変形レバーを戦闘機形態から人型ロボット形態へ動かし、同時にスロットルレバーを全開にした。空中で人型ロボットに変形し脚が下を向いた時に逆噴射で減速しようと考えたのである。もちろん、空中で変形できるかどうかはまったく判らなかった。
 変型時の強烈なGで気を失った少佐の意識が回復した時、少佐は機体が砂漠の上に不時着したのを知った。奇跡的に無傷で助かったのである。
 この事故原因はソフトウェアのエラーであった。フライバイワイヤシステムの制御プログラムに不備があり、Vneを超えた領域での制御プログラム自体が存在しなかったのである。このため、機体がVneを越えた瞬間、フライバイワイヤシステムはスリープ状態になってしまったのだった。
 だが、皮肉なことに、同じソフトウェアのエラーが結果的に少佐の命を救うことになった。人型ロボット形態への変形プログラムを開発したのは陸戦兵器セクションだったが、彼らは人型ロボットヘの変形は地上で専用整備台を使って行うものと頭から決めてかかっていた。このため、人型ロボット形態への変形の際に、速度の制約を設けなかったのである。この結果、戦闘機形態のヴァルキリーは、いかなる速度でも変形できることになってしまっていたのである。
 ヴァルキリーのエンジンナセルは人型ロボット時には脚になるため、強力なアクチュエータが使われていた。このため、超音速領域でも強烈な動圧に逆らって変形することができたのである。一方、胴体の変形用アクチュエータはそれほど強力なものではなかったため、動圧に逆らうことができず、全体として、戦闘機形態の上半身に人型ロボットの脚が付いたような中途半端な変形となってしまったのである。戦闘機形態から人型ロボット形態に変形する際、空気抵抗が急激に増加したことと、スロットルレバーが全開だったため、下を向いた脚のエンジンノズルから噴射されるジェットが強力な逆噴射として作用し、結果的に軟着陸できたのであった。
 この中途半端な変形形態は後に『ガウォーク』形態として、正式に取り入れられ、ヴァルキリーの新たな戦術能力を向上させた。

(引用:『VF-1 VALKELY』「THE TESTING DAYS」)

同人誌「VF-1 VALKYRIE」より



同人誌「VF-1 VALKYRIE」

 この同人誌が販売されたのは1984年5月であるが、その後、2010年代から本格的な自動運転車の開発進められている。
 そして、VF-1ヴァルキリー同様、ソフトウェアに起因する信じられないような事故例が報告されている。例えば、自動運転車のカメラが前方を横切る大型トレーラーと空とを区別できなかったため、自動運転車がトレーラーの側面に衝突した例である。
また、横断歩道上で自転車を押して歩く歩行者を正しく認識できなかっため、自動運転車が左折時に接触事故を起こした例もある。
 ソフトウェア開発者はカメラに映る歩行者と自転車はそれぞれ正しく認識することができ、接触の可能性があれば停車されることになっていたが、自転車を押し歩きする歩行者は、停車すべき物体と認識しなかったためである。
 結局、自動運転などと言っても、制御プログラムを作るのは人間であり、その人間が思い込みで見落としをしてしまえば、最悪の事態を招来しかねない、ということである。その意味で、この加藤少佐の体験はある意味、ソフトウェア開発の課題を20年以上前に示していたとさえ言えるかもしれない。
 完璧な自動運転を実現するプログラムを開発するには、実際の道路で交通事故を起こしてAIに学習させる必要がある、しかないということだろうか。もっとも、それは、どう考えても許されることではないだろう。